立待月夜


(作者注:この作品は「ひみつ」の続きに当たります。まだのお方はまずそちらからお読み下さい。)






「はぁ……」
 一人、俺は離れに座り月を見上げていた。

 

 俺が望み続け、遂に爆発した想い。
 しかし、秋葉に会う事は叶わなかった。
 呪うは、自分の運のなさ。今見上げる「月の巡り」というものが悪かったのか、などと自嘲気味に想ってしまう。
 
 空には、既に高く上った月。
 満月から僅かに欠け、かといって下弦の月にはまだ遠い姿。月齢で言うならば「立待月夜」と言う頃だろう。
 本来この名の由来は、月がまだ立っているうちから昇り始めるからだと聞いた事がある。
 昔の人は日が沈めば床につく生活だったから、それよりも後に昇る月を居待月、寝待月、更待月と言うのだろう。そう考えると、現代の生活はそんな月齢を忘れさせてしまう寂しいものなのかもしれない。
 
 そんな事を考えたのは、一瞬の寂しさを忘れたいからだったか。
 それを意識してしまった瞬間、見上げる月のヴィジョンが滲んだ。

「あ……」

 ずっと我慢していたはずの、涙。
 男だから、などというちっぽけなプライドは、愛する者への想いにはあまりにも無力だった。

「秋葉……秋葉ぁ……」

 俺は崩れるように、布団に顔を伏せる。
 誰に見られているわけでもない、しかし涙を隠すように俺は枕を濡らす。
 二人の結ばれた布団を握りしめ、俺はただ止める事の出来ない涙を流し続けるだけだった。
 

 


 それから、どれほどの時が経っていたのだろうか。
 ようやく顔を上げた俺が目を向けると、開け放たれた障子から見える月が先程とは違う場所にある。ほぼ天頂にあり、時は夜半を過ぎる頃だろうか。

「秋葉……」

 引きずった想いは、俺を眠らせない。今宵はこうして枕を濡らし、苛まれ続けなければならないのか。
 明かりを消し、暗闇に臥せる。
 
 何を考えても、全ては過ぎてしまった過去。
 体が元に戻って、先輩に手紙を託した事も。
 何度と無く迎えに行こうと決心し、そして躊躇してしまった事も。
 そして今日……
 
 せめて満月の夜だったら、秋葉に会える事が出来たのだろうか?
 俺の心は、風化する砂上の楼閣。
 明日の朝には、ココロが壊れているかもしれなかった。
 
「秋葉……」

 暗闇の中で、いっそう俺の理性は惑い出す。
 何度その名を呼んだのだろうか。その美しい響きは、今はむなしく俺を悲しませる響きとなっていた。

 ……兄さん!

 あの時の逢瀬は、もう幻の姿か。その秋葉の声にも自信を失っていった。

「……え?」

 声?
 確かに今、秋葉の声がしたような気がした。
 
「そんな……わけがない、よな」

 もう幻聴まで聞こえてくるようになったのか。コワレカケタ俺にはあっさりとそれを受け入れる恐ろしいほどのココロがあった。
 しかし……

「兄さん!」
「!」

 今度は、明らかにそれと分かる声。それもすぐ近く。
 俺はそれを感じた瞬間、目の前が真っ白になるようだった。
 
 秋葉……!

 今は僅かになってしまったが、心の中にある秋葉の息遣いが聞こえてくるようで。
 胸を締め付けられる感覚に俺は苦しくなり、しかしココロははっきりと生気を取り戻していた。

 俺は居ても立ってもいられず、立ち上がって秋葉の姿を探しに行こうとした。玄関に戻るのももどかしく、開け放たれたその障子の先、縁側より飛び出そうとしたときだった。

「兄さん!!」

 そこから、突然秋葉は現れた。

「あ……!」

 その姿を確認し、体が反応する前に 
 秋葉は、俺の胸に飛び込んできた。

「秋葉!」

 俺は堪らず、力の限り秋葉を抱きしめようとした。
 ……が、どうしてかその体が動かなかった。
「なん……で」
 見ると、俺の両腕は秋葉にがっちりと押さえ込まれ、さらに布団の上に馬乗りにされていた。その力は秋葉の手がブルブルと震えるほど強く、鬱血しそうな程だった。
 これでは、せっかくの秋葉が抱けない。そんな悔しさが俺を支配する。

「秋……葉」

 俺はその顔を見ようと、瞳を真上に向けたときだった。

「兄さん」

 冷静に、しかし狂った口調で秋葉が呟く。
 その怒気などという生やさしい形容詞では表し切れぬ声色に、俺は全身を凍り付かせてしまっていた。
 闇夜に月だけの明かり。その陰になった秋葉の表情が見て取れないが、間違いなく喜びの表情からは遠いだろう。さらに腕を掴むその震えも、再会に震えているそれではないという事だけはっきりと分かった。

「はい……」
 力弱く、俺は情けなくなるほどの声で返事をする。
「はい……じゃありません、兄さん」
 秋葉はこんな時でも感情をコントロールしているのだろうか、そう思えるほど冷静な声だ。

「兄さん、本日はわざわざ浅上までお越し頂いたようで」
 いったい誰がそれを……そう考える余裕もなく、秋葉は続ける。
「生徒会の仕事が忙しく、お会いする事が出来なくて残念ですわ」
 そう言うと、更に腕に力がこもった。

「そして、うちの羽居がお世話になったそうですねえ……」
 秋葉の言葉に、俺は完全に凍り付いていた。

 ……バレている

 俺と、羽居ちゃんの事が。

「羽居が始終全て話してくれましたよ。駅でたまたま出会った事、宿舎前で恥ずかしくも座り込んでしまった事……そして……」

 秋葉は一度ゆっくり息を吸う。見上げる顔が一瞬笑ったかのように見えて、俺はゾクリとした。

「いーっぱい、お相手して貰った事を。8回ですってねえ」

 凄いですねえ、と続くとばかりさも当たり前のように語ったそれが、がんという一撃となっていた。

「そ……それは……」
 気の迷いだ、とでも言おうとしたのか。しかし言葉は続かない。圧倒的なオーラに負けて、全ての言葉が霧散する。
「しかも、このことを秘密にしてくれと約束したそうじゃないですか」
 秋葉の言葉に、別れ際の羽居ちゃんの笑顔を思い出してしまう。

 ああ、しまった。
 秘密は話せないと思っていたのに
 それを後悔したときには、既に遅かった。

 一瞬、自らの散花が見えた気がした。
 秋葉を一時の迷いとはいえ裏切った代償は、この命なのか。そう思った時だった。

「許せません兄さん!羽居ばっかり8回も!!」

「……え?」

 秋葉の叫び声は確かに怒りを含んでいたのだったが、その内容は想像もつかぬものだった。
「私には、まだ1回しか注いでくれてないじゃないですか。それなのに羽居にばっかり……だから……だから!」
 そう言って、秋葉は俺の着ている服を腕から引きちぎろうとするばかりに引っ張る。
「私にも……私にも!少なくとも8回は注いでください!!」
 その無理な注文に、俺は青ざめる。
「待て秋葉!昨日の今日だ、また8回だなんて不可能だ……!!」
 赤玉が出てしまう、比喩表現であるはずの現実が見えたような気がした。
「何を言ってるんですか、不可能な訳がありません!出してください!」
 前後不覚になった秋葉は、委細構わず大声でまくし立てる。それに押され、思わず目を閉じてしまった。

「兄さん、私がどんな気持ちで待ち続けていたのかをご存じですか!?」
 秋葉は詰問するように俺に問う。
「私が手紙を受け取ったとき、どれほど飛んで帰ろうかと思ったか!!休みには会いに来ようか思いながらも、どれだけ我慢した事か!兄さんが迎えに来ると信じて、何度眠れぬ夜を過ごした事か。それなのに、それなのに……」

 段々と語調の弱まるそれが、次第に声でなくなっていく。
 と同時に、腕を掴む力が弱まり、しかし震え続けている。

 そして……

 

 ポトリ

 

「あ……」

 俺の頬に、一粒の……涙。

「あ……きは?」

 俺は衝撃を覚え、秋葉を見た。
 

 そこには、気丈な妹が決して見せた事の無かった、涙。
 秋葉の頬に一筋の光の道が引かれていた。
 腕の震えは、悲しみによるものに変わっていたのか。
 いつの間にか暗闇に慣れた瞳が、秋葉の表情を映し出す。

 涙に泣き濡れ、端正で美しいその顔をくしゃくしゃにして、なんて勿体ない。
 しかし、確かにそれは
 こうして待ち続けた、愛する……愛する……秋葉。

「どうして……私には優しくしてくれないんですか……」
 そこまで言うと、遂に秋葉は崩れ去った。
「兄さん……兄さん!!」
 わぁと、秋葉が大声で俺にしがみつき、泣き出していた。

「……」

 その秋葉に、俺は全ての言葉を失っていた。

 ああ、俺はなんて非道い事をしてしまったのだろうか。
 世界の誰よりも愛し、決して離さないと誓った人なのに、こうも悲しませてしまっていたとは。
 すまなかったと思う心と共に……たまらない愛おしさが溢れ、俺は強くその体を抱きしめていた。

「秋葉……秋葉!」

 慟哭する秋葉を胸に抱き、同じく俺も涙を流していた。
 もう二度と、悲しい思いなんてさせるものか。
 俺だけにしか、秋葉を幸せには出来ないのだから!

 やがて、秋葉の鳴き声も嗚咽に変わっていたが、それも治まる。
 俺は抱きしめていた体を軽く上げ、秋葉を見つめる。
 そうして、しばらく見つめ合った後……

 唇を、重ねた。