「イチゴさん?」

 やや、怯えすら含んだ声。
 驚いた表情で志貴は後ろを振り向いた。
 自分の肩の上にある顔を見つめる。

 しかし、そこにあったのは、自分以上に驚愕した一子の顔だった。
 うろたえた表情で目を見開き、志貴の顔を、そして自分の手を見つめている。
 後ろから抱きすくめた手は大きく開かれ、志貴の胸に、お腹に、強く押し付けられていた。
 痛いほどに。

「私……」

 小さな呟くような声。
 何を言ったらよいのかわからない、そんな思いのこもった声。
 しかし、体は動かない。
 志貴を離すまいとするかのように、しっかりと抱いたまま。

 微妙な緊張関係。
 志貴にしても、強引に体を動かせば、身を振り解く事は簡単であったが、堅く縛り上げられたようにされるがまま。
 
 どちらも動けないその状態、濃厚な停滞。
 しかしそれは、外からあっさりと破られた。

「一子ちゃん、小さい男の子が好きだものね」

 一子でも志貴でもない声。
 間近で雷鳴が轟いたほどの驚きで、一子と志貴は声のした方を向く。
 すっかり二人だけの世界になっていた為に、第三者の存在が脳裏から完全に消えていたのだ。
 当然ながら、ずっと同室していた朱鷺恵が傍らで取り残されていた訳であり、面白そうに二人を眺めていた。

 ぱっと紅くなる一子と志貴。
 初めて体が触れ合った状態に気がついたかのように、離れる。

「あら、そのままでいいのに」
「と、朱鷺恵さん、何を」
「そうだ、突然、おまえ何を言い出すんだ」

 朱鷺恵は動じない。

「本当の事じゃない。一子ちゃん、昔から小学生くらいの可愛い男の子が好きで、話しながら街歩いてても、突然黙って目で追ったり……」
「言うな」

 一子の強い声にも、一向に痛痒を感じない様子の朱鷺恵。

「お茶とかしてても、あの子、可愛いよね、とかしみじみと言ったり、テレビ見てたりしても……」
「朱鷺恵」

 ほとんど、叫び声に近い。
 
「イチゴさん……」

 当惑して志貴は驚きの目で一子を見つめる。
 それは、知らなかった一面を知ったという僅かな意外さが、目に表れているに過ぎないのだが、一子には己を異常者として糾弾しているようにすら見える。
 それがさらに一子を狼狽させ、普段の精神状態を突き崩した。
 だからだろうか。

「だから、そんな可愛い姿になった志貴くんが目の前に現れたら……」
「違う」

 今までと違う声が出た。
 朱鷺恵の声に対し、むしろ静かといって良い声を返す。
 その一子の声の調子に、朱鷺恵は不思議に口を閉ざした。

「逆だ。有間が、小さかった頃の有間が好きだったから、同じ位の似た子がいたら、目を惹かれるんだ……」

 罪を告白するような厳粛な声。
 
「うん、そうだよね」
「嘘……、知らなかった」

 当然と驚愕の二つの声。

「隠していたもの。
 自分でも、こんな年端も行かない男の子に本気になるなんて変だと思っていたから。
 それに、有間は有彦の友達だし、警戒心無しで私と接してくれていたから」

 正面から志貴を見つめたまま、一子は隠していた事実を語った。
 付き合いの長い志貴にはわかった。
 一子の言葉が冗談ではなくて、疑いようの無い真実だと。
 それでもなお、受けた衝撃の大きさに素直に受け入れられない。

 イチゴさんが、俺を?
 それも子供の頃から?

 そんな疑問の圧迫に、救いを求めるように、朱鷺恵の方に目を向けた。
 朱鷺恵はその目に頷く。

「親友の私にもね、全然話さなかったんだ。
 だから、私が志貴くんの初めてを貰った時、一子ちゃん、凄いショックを受けたんだよ。それで髪を」
「おい、それ以上言ったら、本当に友達の縁を切るぞ」

 鋭い一子の声。
 知らぬ者が聞いたら体をビクンと震わせる激しさを秘めていたが、そこは付き合いの長い友達ならではだろう、朱鷺恵は、軽く肩を竦めるだけでさして動じない。
 しかし、表情を僅かに変える。
 一子には、珍しく真面目な顔をしているなと気づかせる変化。

「はいはい、志貴君には黙っててあげる。
 でも、一子ちゃん……、志貴くん、昔の姿で戻ってきたわよ。
 私と結ばれたより、ずっと前の志貴くんに……」
「……」

 朱鷺恵の声に、一子は改めて志貴を見つめる。
 ある意味、いちばん戸惑ったままの少年の姿を見つめる。

「私、しばらく席を外すから」
「おい」
「いちおう、家の人に状況を聞いたり、今後の方針を相談したりしないといけないでしょ?
 うーん、きっとね、だいぶかかると思うなあ。
 それじゃね、志貴君、一子ちゃん」

 止める間もなく、朱鷺恵は手をひらひらとさせ、部屋を出て行った。