「暇だなぁ……」

 学校も行かず、志貴は今日も昼間から自室でのんびりとしていた。毎日が日曜日なこの生活も悪くはないのだが、流石にこうもやる事がない日々も退屈だ。
 いや、行かないというのは間違いで、志貴の場合は行けないのだった。
 その理由はその姿……八年前の姿に戻った志貴の体にあることは言うまでもない。そんな姿で学校に向かえば、パニックが起きかねない。とにかく今は家でじっとして、シエルの言う人物の協力を待つしかなかったのだ。
 元々勉強を進んでやろうとする性格ではないから、家でやる事と言えば、散歩に昼寝、後は翡翠や琥珀や秋葉に加えて、時折様子を見に来るシエルの話し相手くらいしかない。で、

「今日は……このまま昼寝でもしようかな?」

 翡翠には食事まで呼びに来なくていいと言ってあるし、琥珀も買い出しで留守だ。もちろん秋葉は学校だし、シエルも今日は姿を見せていない。

「そうしよう、うん。寝る子は育つって言うしな」

 今の志貴には意外に似合う言葉を呟きながら、布団をかぶって惰眠を貪ろうとしたその時だった。

 コンコン

「志貴さま」

 ドアをノックする音と共に、翡翠の呼びかけが聞こえた。

「ん……? どうしたの、翡翠?」

 志貴は少し意外そうに答える。すると、翡翠は部屋の中に入ってきた。意外なことに、その顔ははどことなく不安と困惑を含んでいるようだった。

「志貴さま……志貴さまにお客様がいらしているのですが」
「え?」

 翡翠のその言葉に、心底意外そうな志貴であった。基本的に志貴への来客は断る様に翡翠には頼んであったのに、今は伝えてきているのだ。それは何か特殊な事情があるに違いない

「一体、誰?」
「はい……」

 志貴の問いに、一瞬ためらうような表情を見せた翡翠であったが、意を決したように口を開いた。

「……時南様です」
「はぁ?」

 一体誰の名前が出るのか息をのんでいた志貴は、当たり前と言えば当たり前の名前に素っ頓狂な声を上げてしまった。

「じーさん? まだ検診には早いってのに……遂にモウロクしたか?」

 志貴は悪態をつく。

 時南宗玄、認めたくないが一応志貴の主治医である。志貴がこの身体になった事を唯一知る外部関係者だ。
 「線」が見えなくなったとはいえ、どんな異変が志貴に起こるかも分からない。その意味で宗玄に協力を仰ぐ事は仕方のない事であった。流石にこうなった事を隠したままに志貴を看て貰うわけにもいかない。
 子供の姿に戻った志貴を初めて見たとき、あの宗玄も言葉を失った。が、すぐに面白そうに笑うと、相変わらずの乱暴さで志貴を扱ったのだった。
 そんな宗玄の定期検診は月一度程度行われるはずで、今日はまだ前回来たときから半月も経ってない。だから今宗玄が来客しているならおかしな状況である。
 疑問符の浮かぶ志貴を見て、翡翠は首を振った。

「違います、時南様と言っても……」

 翡翠はそこで一端言葉を句切る。

「え……?」

 志貴はその言葉に一瞬首をひねり、それから……青ざめた。
 翡翠はそんな志貴の反応を待っていたかのように

「はい。朱鷺恵さまがおいでです」

 翡翠の口から出た名前は、志貴の想像していた名前そのものであった。故に、志貴はよけいに青ざめる。

「ちょ、ちょっと! 朱鷺恵さんって!?」

 うろたえる志貴に、翡翠も困ったように答える。

「はい、何でも宗玄様の代わりと言う事で、特別検診にいらしたと仰っていました」
「そんな……」

 志貴は焦りを感じていた。出来ればこの姿は他人に見せたくない。騒ぎが大きくなる事を防ぐ意味もあるが、恥ずかしいという気持ちもあったからだ。そのため宗玄には秘密厳守を言い渡していた。
 しかし、その宗玄の代理で朱鷺恵がやってきたと言う。朱鷺恵は実際この位の身体だった頃から面識があるが、だからこそ余計に難しい状況であった。昔を知る者に見られるのは、互いにショックを与えかねないと志貴は思っているからだ。
 しかし何故宗玄は朱鷺恵を来させたのかと、志貴は考えを巡らせた。そして考えるのは、宗玄のあの憎たらしい笑い顔。

「あのクソじじい。秘密にしとけってあれ程言ったのに……喋ったな」

 志貴には、にやけながら志貴の事を楽しそうに話す宗玄の顔が真っ先に浮かんでいた。恐らく宗玄が喋ってしまい、興味を持った朱鷺恵が志願したのではないだろうか。

「どうしますか、志貴さま?」

 翡翠は困りながら訪ねた。あまり向こうを待たせるとかえって怪しまれる。そう思ったが、既に遅かった。

「翡翠ちゃん、遅かったから勝手にお邪魔しちゃったね」
「!?」

 ドアの向こうから声が聞こえた。二人は慌ててその方を見る。

「朱鷺恵さま!」
「と、朱鷺恵さん!? ちょっと待って!」

 志貴は慌てるが、鍵のかけられていないドアはあっさりと開いた。

「なんだ、いるならいつもみたいに通してくれれば……」

 澄んだ声が、ドアを通さずに聞こえてきた瞬間だった。


「え……?」
「え……?」
「え……?」


 三つの声が、重なった。
 ひとつは朱鷺恵が志貴を見た驚きの声。
 ひとつは志貴が朱鷺恵の奥にいる人物を見た驚きの声。
 そして……最後のひとつは翡翠ではなく、その人物からあがっていた。

「志、貴……くん? 志貴くん、なんだ……」

 少しは覚悟が出来ていたのだろうか、朱鷺恵は若干驚きながらもその姿を認識できていたらしい。すぐにいつもの声が続いた。
 が、

「な……なんで……?」

 今の状況を予想だに出来なかった志貴は驚愕に目を見開き、それしか言えないでいた。そしてそれはその視線の先の人物も同様であったらしい。

「……」

 そこでは、口にくわえていた火のついてないタバコをぽとりと床に落とし、一子が固まっていた。

「い、イチゴさん……」

 口をぱくぱくとさせながら、志貴は一子を見た。
 間違いない。どこからどう見ても有彦の姉である乾一子であった。

「……」

 変な事には慣れていると思っていた一子も、流石のこれには敵わなかったらしい。絶句したまま、惚けたように志貴を見ていた。
 そんな二人のやりとりがしばらく続くかと思われた瞬間

「志貴君、どうしちゃったの? かわいいー!」

 いち早く正気に戻っていた朱鷺恵は、その懐かしい姿に喜んでいた。
 そのまま部屋を横断して志貴のベッドまで来ると、志貴に抱きついていた。

「わっ! わっ!?」

 突然の朱鷺恵の行動に気が付き、志貴がようやく驚く。しかし完全に朱鷺恵に包まれるような格好の志貴は、動く事もままならなかった。朱鷺恵のいい匂いと柔らかい胸の感触が、志貴の顔を覆っていた。

「わあ、お人形さんじゃなくって本当に志貴君なんだ。信じられなーい」
「と、朱鷺恵さん! ちょ、ちょっと……!」

 そんなやりとりを見ていて、ようやく一子が正気を取り戻した。

「ま、待て。おまえ、本当に有間なのか……?」

 滅多に見ない驚きの表情で一子が志貴に訪ねた。
 志貴は相変わらず朱鷺恵に抱きしめられたままであるので、頷く事しかできなかった。

「そ……んな、馬鹿な」

 その返事にも一子はまだ信じられぬと言った表情であった。普通久しぶりに実の弟同然の人間に会ったら子供になっていました、なんて事が有るわけがない。

「朱鷺恵さま」

 そんなやりとりを見ていた翡翠が、ここで間に入り込むようにして声をかけた。心なしか表情が少しだけむっとしている。その視線は朱鷺恵に向けられていたようだが、当の本人は志貴を抱きしめたまま気にも留める様子はない。それどころか

「あ、これから診察始めるから、翡翠ちゃんは席を外してくれる?」

 と、朱鷺恵は肩にかけていた鞄を降ろしてマイペースに準備を始めていた。

「ですが朱鷺恵さま……」

 流石にここで潔く引くわけにいかない翡翠だったが

「あら、じゃぁ志貴君の恥ずかしい姿とか見ちゃう?」

 そうからかわれる様に言われてはどうしようもなかった。つい日頃触れ合っている志貴の素肌を思い出し、翡翠が赤面する。

「……わかりました。では、そちらの方も……」

 渋々、と言うように翡翠が答え、せめて一子だけでもと声をかけようとした時、朱鷺恵が更に先手を打った。

「あ、この子は私の手伝い。父さんが一人じゃ不安だろうからって。ということで、翡翠ちゃん、終わったら連絡するからねー」
「あ、あの、朱鷺恵さま……」

 と、もっともらしい理由を述べると、そのまま半ば強引に翡翠を部屋から追い出してしまった。
 バタンと扉が閉められ、笑いながら朱鷺恵が振り返った。

「さぁ志貴君、診察のお時間ですよ」

 朱鷺恵が検診に来たのは建前でなく本当だった。ただし、朱鷺恵と一子の計画に基づいたものではあるが。
 とにかく、三人になった志貴達はようやく落ち着きを取り戻して、どうしてこうなったのかをお互いに説明していた。
 志貴の方は肝心な部分を避け、何とか誤魔化した。多少納得していない様子の朱鷺恵と一子だったが、志貴は逆に質問をする事で切り抜けた。

「へえ、意外だなあ。朱鷺恵さんとイチゴさんが高校の同級生だったなんて」

 で、志貴はようやく教えられた二人の関係に少しだけ驚いていた。二人は高校の時からの友人で、今日は朱鷺恵が一子を連れてきたと言う事だ。

「……で、何でさっきからイチゴさんは後ろ向いてるんですか?」
「い、いいじゃないか。私が何処見ていようが」

 そしてふと気になっていた事を口にすると、一子はもうショックから立ち直ったようでいつも通りにぶっきらぼうに答えた。実際はもう少し違って頬が紅潮していたのだが、それは志貴からは見えなかった。

 実際、診察を受けるためにベッドで上半身裸になって座っている志貴の後ろで、一子はとりあえず志貴が動かないように両手で肩を押さえていた。が、顔だけはずっと最初からそっぽを向き続けている。どうやら志貴を直視できないらしかったが、その理由を一子は答えなかった。
 志貴の肩に置かれる一子の手。それは優しくて本当に看護婦のお姉さんに手を置かれているみたいだった。それに対して、イチゴさんでもこんな風に出来るんだ、と少しだけ失礼な事を思ってみた志貴であった。

「……んー」

 朱鷺恵は聴診器を志貴の傷の消えた胸板に当てて心音を聞き取っていたが、やがて

「うん、異常なし」

 と、笑顔で聴診器を外していた。

「よかった……」

 予想されていた結果とはいえ、そう言われる事で安堵を得た志貴であった。

「それじゃ、おしまいっと……」

 朱鷺恵もそう言って、片づけを始めようとしたその時だった。
 志貴は自らの肩へ置かれる手が、少し震えているのに気付いた。

「ん? イチゴさん……?」

 一体何なのか、と志貴が振り返ろうとしたその時

 ガバッ!

 突然、志貴は後ろから一子に力強く抱きすくめられていた。