翌日。 「はぁ……」 結局出るのは溜息ばかりだった。 「もうっ、そんなに溜息ばかりだと、こちらまで移ってしまうじゃないですか、志貴さん。そんなのもおくびに出さず、って出来ないんですか」 俺は出されていたコップの水をくるくる回しながら、また溜息。 「とにかく、です。午後は入り口・出口を定点観測をして、動かないようにしましょう」 その提案は正直ありがたかった。昨日も含め歩き通しだったから、少なくても立っているだけの午後はある程度楽が出来そうだ。 「まぁとにかく……今は力を蓄えないと」 俺達は出された食事を美味しく頂き、これからに備えた。そして食後 「こんにちはー、食後のコーヒーのお代わりは如何ですか?」 窓の下から人の河を眺めてた俺に声がかかった。丁度、二十五階はあろうかというこの建物からの光景はまるで人が蟻のよう、そう思っていた時だった。姿を見ればウェイトレスさんはちょっと小柄で、脇にはトレイを持ち、どことなく不慣れな様子。でも別に興味がある訳じゃないから、すぐに今度は真っ青な空へと視線を移してみる。 「ではお注ぎしますね、志貴さん」 どうして、俺の名前……? 「ごめんなさ〜い!」 ガシャァァァン!! え? 「マスター!」 ああ、琥珀さんだ。 「マスター!」 はっきりと聞こえる叫び声に、はっと覚醒する。自然に、手が伸ばされていた。生への欲望はもう捨てたはずだったのに、まだ諦め切れていないところが、いかにも俺らしい。ぐっと向こうも手を伸ばし、琥珀さんが俺を捕まえる。そうして地面まで後二メートル、というところで、無理矢理自由落下以上の速度から、水平移動。その時の速度はワカラナイ。ただ、骨がひしゃぐかと思うほどの衝撃に、俺の意識は悲鳴を上げて、気を失っていた。 ぎり、と軋む。そんな痛みで目が覚めた。 「くうっ……」 肩を貸そうとする琥珀さんを制し、俺は体を起こした。ここは……ホテルの裏手か、辺りには人は誰もいない。まだぼうっとする頭を振って、無理矢理意識をはっきりさせる。しかし…… 「ハデにやったもんだなぁ……」 まるで他人事のようにそう呟く。向こうでは大騒ぎになってるらしく、サイレンの音まで聞こえる。こんな警察沙汰になったら、ろくに捜索もできないかな、そんな風に心配をしながら琥珀さんを見ると…… 「あ……」 シミ一つ無いはずの琥珀さんのその笑顔に、一筋の赤。それは、頬をかすめたガラスの破片の仕業なのだろうか。つうっと頬から滲んだそれは筋を作り、先端には雫が。 「あ、これですか、気にしないでくだ……」 俺は琥珀さんが無造作に手で拭おうとしたのを制止する。と言っても、俺は救急箱を常備している訳じゃない。ハンカチは噴き出す汗を拭いていたから使えない。どうしたら……気付けば雫は今にも滴り落ちそうになって、ぷっくりとふくれている。その時だった。 「そうだ」 先人の知恵。それは流れる血を止めて、消毒の効果がある…… 「琥珀さん、ゴメンっ!」 俺は琥珀さんの肩に手を置くと、その傷口の位置を確認してゆっくりと顔を近付け、まるでキスをするように琥珀さんの頬を目指して唇を寄せた。そしてその頬に触れると……ぺろりと、舌先で血を舐め取った。口の中に、苦みとも付かない鉄の味。それは琥珀さんから流れ出てしまった生きる証。ひどく現実を思わせる味は、全て自分の体内に取り込みたくて唾液に混ぜて嚥下する。 「やだ……志貴さん、やめてください。そんな、汚いです……」 ペロペロと、琥珀さんの頬を血の筋に従って舐める。それは端から見ればひどく淫靡な光景かもしれない。でもこれは、治療なのだ。そう思わないと、自分も何だか変な気分になってしまいそうだったから。 「ん……あった。小さなかけらだったけど、柔らかい舌先なら破片も傷つけずに取れる」 感じた違和感を探り当てると、俺は優しくそれを舌先に乗せて、琥珀さんの傷口から取り去っていた。ガラス片。ほんとに小さなそれだったけど、それが琥珀さんを傷つけたのだと思うと、許せなかった。それを吐き捨てると、俺はもう一度舌をあてがい、琥珀さんの頬に何も残っていない事を確かめた。 「これで……よし」 最後に全体を優しくなぞってあげてから、唇を離すと、そこには頬を真っ赤に染めた可愛い琥珀さんがいた。 「……」 改めてそうされると、こっちまでこそばゆい気持ちになってしまう。決してそんなつもりではなかったのに、どうしても意識してしまい、ああ! 「改めてだけど……琥珀さん、ありがとう……」 その言葉を言うのも、恥ずかしさにまみれてしまった。つい瞳を反らして横目で見ながらぶっきらぼうに言ってしまい、まるで自分が素直じゃないガキの様だ。 「はい……あっ」 琥珀さんは何とか取り繕って答えてくれたようだけど、すぐにその瞳が驚きに見開かれた。その反応に、思わず俺もえっ、となってしまう。 「マスター、血……」 その言葉に、俺は自分の頬を撫でる。しかしその指には、赤い跡も付いていない。一体どこが、そう思って、顔中をなで回そうとした時だった。 「唇……」 言われて、舌なめずりをするように下唇を舐めると……確かに、新たな血の味が口内に染み渡った。何時傷つけたのか覚えてない。恐らくガラスの破片を探そうとして、その前にやってしまったのかもしれない。 「大丈夫これくらい、何てことない」 虚勢でもなく、痛みも感じないから大丈夫に違いない。俺は心配しないように微笑むが、琥珀さんは何故か黙ったままだ。すっと、その顔が俯く。まるで何かを思い詰めているかのような仕草。自分の所為で、と思ってしまってるのだろうか。そんな事はない、これは自分で招いた結果で、俺はいつもこうして助けられてばっかで……それを琥珀さんにどうやって説明すればいいか悩んでいた俺に 「……」 琥珀さんが顔を上げて、真剣な瞳で見つめてきて、そして…… 「あっ……」 今度は、こちらがその声を上げる番だった。 「こ、琥珀さん……!?」 その意味を理解した俺は、恥ずかしさに笑ってしまう。そして、琥珀さんもそんな俺を見て、そして思い出してか、同じように笑う。お互い、よく考えればとんでもない事をしたんだなぁ、人に見られない場所で良かったと思った。 「ふふふ……」 しばらくそうしているうちに、すっと琥珀さんの笑顔が消えて、真剣なモノに変わった。 「琥珀さん」 俺達は頷く。相手は本気だった。だからこちらも、本気で行くしかない。 「行こう、向こうもこれで俺達をやれたとは思ってないはず」 俺達は頷き合うと、アキラちゃんの待つ会場へ、もう一度足を踏み込んでいった。 |