翌日。

「はぁ……」

 結局出るのは溜息ばかりだった。

「もうっ、そんなに溜息ばかりだと、こちらまで移ってしまうじゃないですか、志貴さん。そんなのもおくびに出さず、って出来ないんですか」
「あうう、そんな事言われてもさぁ……はぁ」

 俺は出されていたコップの水をくるくる回しながら、また溜息。
 朝からかなり血眼になってアキラちゃんを捜すが、互いが警戒しているこういう時にはなかなか現れないモノだ。翡翠は無理をさせないためにもホテルで休んで貰っているが、こちらは二人。それでも、あの広い会場を隅々まで網羅する事など不可能に等しい。それに、琥珀さんは昨日のコスプレブースでの人気ぶりから、絶えず注目を浴びてしまって、捜索もままならないとか。
 結局午前は何も情報を得られないまま、とりあえず情報交換という事でホテルの最上階にあるレストランへ食事にやってきたのだった。俺の溜息は、互いの情報を交換し合った直後から始まった。

「とにかく、です。午後は入り口・出口を定点観測をして、動かないようにしましょう」
「ああ、分かったよ、その方が集中できる」
「でも、ちゃんと目は凝らしていてくださいね。志貴さんの眼鏡だって、普通のモノを見る分には伊達なんですから、視力悪くないんですよね?」

 その提案は正直ありがたかった。昨日も含め歩き通しだったから、少なくても立っているだけの午後はある程度楽が出来そうだ。

「まぁとにかく……今は力を蓄えないと」

 俺達は出された食事を美味しく頂き、これからに備えた。そして食後

「こんにちはー、食後のコーヒーのお代わりは如何ですか?」
「え、ああ、はい。お願いします」

 窓の下から人の河を眺めてた俺に声がかかった。丁度、二十五階はあろうかというこの建物からの光景はまるで人が蟻のよう、そう思っていた時だった。姿を見ればウェイトレスさんはちょっと小柄で、脇にはトレイを持ち、どことなく不慣れな様子。でも別に興味がある訳じゃないから、すぐに今度は真っ青な空へと視線を移してみる。
 と、その女の子から……声が漏れた。

「ではお注ぎしますね、志貴さん」
「……え?」

 どうして、俺の名前……?
 そう思った瞬間

「ごめんなさ〜い!」

 ガシャァァァン!!

 え?
 背中を一瞬ぶつけた感覚。しかしすぐにそれも失われて。
 音と共に、俺は急に空の中に飛び出していた。
 見えるのは、さっきまで俺が居たレストランの風景、そしてきらきらと噴水の飛沫のように光る幾多のプリズム、そして……ああ、アキラちゃん。俺はそれを確認すると、お腹がいっぱいになっていて油断したなと、初めて気が付いた。
 そんな不釣り合いな事を考えつつ、俺は重力に引かれるままにフリーフォール。ああ、空ってこんなに広いんだ。そんな事を思いつつも、俺はどうする事も出来ず、ただ空気抵抗に滞空時間を延ばして貰うだけだった。
 すると、そんな俺の目に、一つの物体がビルから飛び出した。

「マスター!」

 ああ、琥珀さんだ。
 琥珀さんまで突き落とされちゃったのか、それは仕方ない。そう思った。
 でもそれは違っていた。琥珀さんの姿はすぐに大きくなっている。こっちの方が落下速度が速いはずなのに、おかしいな。俺がそんな不思議な現象の理由を理解したのは、それからちょうど一秒後だった。
 琥珀さんはほうきに跨り、超高速でこちらに近付いていたのだった。

「マスター!」
「琥珀さん!」

 はっきりと聞こえる叫び声に、はっと覚醒する。自然に、手が伸ばされていた。生への欲望はもう捨てたはずだったのに、まだ諦め切れていないところが、いかにも俺らしい。ぐっと向こうも手を伸ばし、琥珀さんが俺を捕まえる。そうして地面まで後二メートル、というところで、無理矢理自由落下以上の速度から、水平移動。その時の速度はワカラナイ。ただ、骨がひしゃぐかと思うほどの衝撃に、俺の意識は悲鳴を上げて、気を失っていた。

 ぎり、と軋む。そんな痛みで目が覚めた。

「くうっ……」
「マスター、気が付きましたか?」
「ああ、大丈夫だよ」

 肩を貸そうとする琥珀さんを制し、俺は体を起こした。ここは……ホテルの裏手か、辺りには人は誰もいない。まだぼうっとする頭を振って、無理矢理意識をはっきりさせる。しかし……

「ハデにやったもんだなぁ……」

 まるで他人事のようにそう呟く。向こうでは大騒ぎになってるらしく、サイレンの音まで聞こえる。こんな警察沙汰になったら、ろくに捜索もできないかな、そんな風に心配をしながら琥珀さんを見ると……

「あ……」
「? どうしました、マスター?」
「血……」

 シミ一つ無いはずの琥珀さんのその笑顔に、一筋の赤。それは、頬をかすめたガラスの破片の仕業なのだろうか。つうっと頬から滲んだそれは筋を作り、先端には雫が。

「あ、これですか、気にしないでくだ……」
「待って、だめだよ擦ったら。破片が中に残ってるかもしれない。それに不衛生だ」
「でも……」

 俺は琥珀さんが無造作に手で拭おうとしたのを制止する。と言っても、俺は救急箱を常備している訳じゃない。ハンカチは噴き出す汗を拭いていたから使えない。どうしたら……気付けば雫は今にも滴り落ちそうになって、ぷっくりとふくれている。その時だった。

「そうだ」

 先人の知恵。それは流れる血を止めて、消毒の効果がある……

「琥珀さん、ゴメンっ!」
「え、あ、あっ……」

 俺は琥珀さんの肩に手を置くと、その傷口の位置を確認してゆっくりと顔を近付け、まるでキスをするように琥珀さんの頬を目指して唇を寄せた。そしてその頬に触れると……ぺろりと、舌先で血を舐め取った。口の中に、苦みとも付かない鉄の味。それは琥珀さんから流れ出てしまった生きる証。ひどく現実を思わせる味は、全て自分の体内に取り込みたくて唾液に混ぜて嚥下する。
 一瞬俺の行動が何か分かっていなかった琥珀さんは、最初肩に力を込めていたが、俺が触れた瞬間に、ちょっとだけピクッと反応した後は、すうっと力が抜けて俺にされるままになっていた。

「やだ……志貴さん、やめてください。そんな、汚いです……」
「何言ってるんだ、昔から怪我は唾付けときゃ治るって言うじゃないか。それに……」
「ひゃあっ!」
「動かないで、じっとして……」
「はい……なんだか、変な気持ちになりそうです……」

 ペロペロと、琥珀さんの頬を血の筋に従って舐める。それは端から見ればひどく淫靡な光景かもしれない。でもこれは、治療なのだ。そう思わないと、自分も何だか変な気分になってしまいそうだったから。
 俺は琥珀さんの傷口を優しく舌で覆うと、その一番敏感と言われる感覚器を駆使して何かを探る。そして

「ん……あった。小さなかけらだったけど、柔らかい舌先なら破片も傷つけずに取れる」

 感じた違和感を探り当てると、俺は優しくそれを舌先に乗せて、琥珀さんの傷口から取り去っていた。ガラス片。ほんとに小さなそれだったけど、それが琥珀さんを傷つけたのだと思うと、許せなかった。それを吐き捨てると、俺はもう一度舌をあてがい、琥珀さんの頬に何も残っていない事を確かめた。

「これで……よし」

 最後に全体を優しくなぞってあげてから、唇を離すと、そこには頬を真っ赤に染めた可愛い琥珀さんがいた。

「……」

 改めてそうされると、こっちまでこそばゆい気持ちになってしまう。決してそんなつもりではなかったのに、どうしても意識してしまい、ああ!

「改めてだけど……琥珀さん、ありがとう……」

 その言葉を言うのも、恥ずかしさにまみれてしまった。つい瞳を反らして横目で見ながらぶっきらぼうに言ってしまい、まるで自分が素直じゃないガキの様だ。

「はい……あっ」

 琥珀さんは何とか取り繕って答えてくれたようだけど、すぐにその瞳が驚きに見開かれた。その反応に、思わず俺もえっ、となってしまう。

「マスター、血……」
「え?」

 その言葉に、俺は自分の頬を撫でる。しかしその指には、赤い跡も付いていない。一体どこが、そう思って、顔中をなで回そうとした時だった。

「唇……」
「あ……」

 言われて、舌なめずりをするように下唇を舐めると……確かに、新たな血の味が口内に染み渡った。何時傷つけたのか覚えてない。恐らくガラスの破片を探そうとして、その前にやってしまったのかもしれない。

「大丈夫これくらい、何てことない」

 虚勢でもなく、痛みも感じないから大丈夫に違いない。俺は心配しないように微笑むが、琥珀さんは何故か黙ったままだ。すっと、その顔が俯く。まるで何かを思い詰めているかのような仕草。自分の所為で、と思ってしまってるのだろうか。そんな事はない、これは自分で招いた結果で、俺はいつもこうして助けられてばっかで……それを琥珀さんにどうやって説明すればいいか悩んでいた俺に

「……」
「琥珀さん?」
「マスター……失礼します」

 琥珀さんが顔を上げて、真剣な瞳で見つめてきて、そして……

「あっ……」

 今度は、こちらがその声を上げる番だった。
 琥珀さんが、俺の唇にそっと舌先を伸ばし、ちろり、とその血の滲みを舐めていた。俺はその行動に直立したまま動けない。まるで魔法にかかったかのように、されるがまま唇をそっとなぞられてゆく。
 何て静かに、ぴちゃり、ぴちゃりと俺の首に手を回して唇を舐めては、その雫を嚥下していく姿。目を瞑って、視線を合わせないようにする仕草がかえっていやらしく、俺は心臓が跳ね上がりそうなほどドキドキしてる。それは琥珀さんも同じなのだろうか
 
「はぁ……」
 
 幾度か止まらない血を舐め取っては甘く溜息を漏らして、湧き上がる興奮を抑えているように見えてしまう。瞳をすっと反らすその仕草までも艶を感じさせてしまい、体中が鳥肌を立ててゆくのがわかった。
 だが、やがてすうっとその暖かくて心地よい感触が離れてゆく。琥珀さんが俺から一歩離れながら、にっこりと立っていた。俺はぼうっとしていたが、指が自然に唇に触れると……思い出して、真っ赤になって慌ててしまった。

「こ、琥珀さん……!?」
「えへへ……これで、おあいこですね、マスター」
「あ? あ、あは、あはは……」
「うふふ、ふふ……」

 その意味を理解した俺は、恥ずかしさに笑ってしまう。そして、琥珀さんもそんな俺を見て、そして思い出してか、同じように笑う。お互い、よく考えればとんでもない事をしたんだなぁ、人に見られない場所で良かったと思った。

「ふふふ……」

 しばらくそうしているうちに、すっと琥珀さんの笑顔が消えて、真剣なモノに変わった。

「琥珀さん」
「マスター、さっきは油断しましたが……」
「ああ」

 俺達は頷く。相手は本気だった。だからこちらも、本気で行くしかない。
 特に、俺は……狙われて、翡翠だけでなく琥珀さんまでも危険に晒してしまい、自分の身の危険はともかく、それだけが絶対に許せなかった。自分への戒め。そして転嫁するような形での、アキラちゃんへの思ってはいけない負の感情。素直に自分への怒りをぶつけられない自分が、まだ青いとは分かっていても、今はこの気持ちをぶつける手段が思いつかない。

「行こう、向こうもこれで俺達をやれたとは思ってないはず」
「はい。もう少し泳がせておくつもりだったんですが、ここまでされたらもう限界です。実は、私に心当たりがあります。」
「……わかった、それに賭けよう」

 俺達は頷き合うと、アキラちゃんの待つ会場へ、もう一度足を踏み込んでいった。