俺は疲れ切ったまま、殆ど脚を引きずるようにして階段を下りる。

「あは、まぁ仕方のない事ですよ、志貴さん」
「そうです、事はそう簡単に好転するとは限りません」

 対照的に、琥珀さんと翡翠は朝来た笑顔のまま、というよりむしろ生き生きとしている。写真に撮られる高揚感にあてられて、すっかり上機嫌のふたりは……ちゃんと自分達の任務をこなしてくれたんだろうか、何となく自分だけ損をした気分だ。
 あの後午後も時間いっぱいまで手がかりを探し求めた俺だったが、結局それらしい兆候を示す事は何一つ見つけられなかった。閉会後に二人と合流した時には、日頃学校との往復ぐらいにしか使わない足がもう歩きたくないと悲鳴を上げていた。

「でも……収穫が一つもないと、こう、脱力感というか絶望感が」
「何を言うんですか、志貴さん。その地道な努力がいつか実を結ぶと思えばいいじゃないですか」
「まぁ、そうだけどさ……」

 無理矢理歩かされ駅までようやくたどり着き、失意のままの帰宅。しかも同じ時間にあれだけ居た人間がまとめて帰ろうとするのだ、周りは昼間の混雑と全く変わらない、いやそれ以上のごった返しを見せていた。しかしこれ以外に俺達には帰る手段もない。タクシーなんてブルジョワのすることや、琥珀さんのほうきでひとっ飛び、なんてゴシップ記事にしかならないような行動は無論出来るわけもなく、ただ一般庶民は与えられた交通手段で帰るのみ。

「ホームの階段付近は混雑します、なるべく奥の方へお進み下さい」

 そんな構内アナウンスに従いながら、押し出されるようにして俺達はホームの最後方へ。ようやく人混みから多少は開放されて、俺は思わずへたり込んでしまった。

「もう志貴さん、だらしないですね。日頃はあんなにあっちの力が有り余ってるというのに」

 ぺしっとそんな俺の頭を叩き、いやですよーと琥珀さんは笑う。まったくその通りかもしれない。何て言うか俺、普段とギャップがありすぎる。

「まもなく〜」

 そんな自分に辟易していた頃、アナウンスがあの独特の調子で流れ出した。

「志貴さま、そろそろ電車が来るようです」
「ああ、ってと……」

 俺は一度座り込んでしまって嫌がる身体を無理矢理なだめ、何とか立ち上がる。
 と、血の気の少ないもあるが、いろんな熱さにやられたのと疲れからだろう、立ちくらみがした。
 うわ、と思う間に目の前が真っ白になっていって、何とも言えぬ浮遊感にクラクラする。まぁ、よほどの貧血でなければこの瞬間が楽しい、というのもちょっとはあるけれど、自分が大分へこたれてるなと自覚させられる症状だった。

「……さん?」

 琥珀さんの声が聞こえて、そろそろ戻ってくるかなー、と自覚した瞬間

 ドンッ!

「!?」

 俺は唐突に現実に引き戻され……目の前には視線が落下していく自分と、覚醒したというのに足下の浮遊感が本当に浮遊感に変わっている自分に気が付いた。

「ぐあっ!」

 足が地に着いた瞬間、俺はバランスを取りきれずに寝転がるような体制になってしまう。と同時に

「志貴さん!」
「志貴さま!」

 二人の悲鳴のような叫び声が、頭の上の方から聞こえた。続いて幾多の騒ぎ声も。
 え、頭の上……?

「なっ……」

 ようやく自分がどこにいるのか気付いた時、俺は頭からすーっと血の気が引いていくのが分かった。
 線路に落下してる……!
 手にひんやりと触れる感覚は金属のレール。そして身体に当たるごつごつとした感触はコンクリート。あまりにリアルなその感覚に、一瞬それを確かめてしまうようだった。

「あ、あ……!」

 一瞬の逡巡、しかし俺はようやく事の重大さに気が付いて立ち上がろうとする。が、
 プアーン!!
 その大音響に、身体の神経を奪われた。

 見えたのは、絶望という名の二つの光。
 そしてそれは、巨体に似合わないスピードで、俺に迫ってきている。
 ギャリギャリギャリィィィ! という金属同士が強烈に擦れ合う、そんな音があまりにもリアルで……
 俺は、まさに突入してきた電車によって跳ね飛ばされようとしていた。

「あ……」

 こんな結末って、ありなのか。
 スローモーションのような一瞬に、ただぼうっと眺めるだけの自分がひどく他人のように感じられる。
 ああ、でもこんなもんなのかな。
 達観した自分が、ちょっとだけ時期が早まっただけの死に冷静になれていた。ほら、あと百メートル……距離まで分かる。ここに来てそんな自分が滑稽だ。俺は身を任せる。

 タンッ

 が、電車を見つめる俺の視線の間に、割り込む姿を一つ見つける。それは……

「あ……」

 翡翠?
 翡翠が、線路に下りていた。
 ど、うし、て?
 一瞬の混乱は、しかしすぐに衝撃へと変わっていった。

「翡翠!」

 俺は背を向ける少女に叫んだ。すると、翡翠はこちらに振り返り

「……志貴さま、お守りいたします」

 凄く可愛い顔でにっこりと笑い、また電車と対峙した。
 さっきまでは全てを見据えていた自分なのに、翡翠の行動で全てがぶちこわされていた。無茶苦茶に混乱している。

「ダメだ! 翡翠!!」

 もう訳が分からず、叫ぶ。
 翡翠は俺と迫り来る電車の間に立ち、身じろぎひとつしない。
 と、その両手がすうっと自然体から滑るように動いて、真円を描いた。
 けたたましい警笛の音に揺れる事もなく、静かに翡翠は動きを止めた。電車は、もう数メートル。俺は共に轢かれてしまうことを悟り、目を瞑った。
 その時だった。

「……はあっ!」

 気を溜めていた翡翠から、気合いの声があがった。
 瞬間
 ガァンッ!
 あれだけ音を立てていた空間が、一瞬の轟音と共に静まりかえっていた。

「……」

 自分の身に何も起こってないと気付き、目を開いた俺が目にしたのは……

「ひ、す、い……」

 電車の前に立ち塞がる翡翠。
 その前面は半球形の衝撃波を受けて、べっこりと凹んでいた。丁度その高さは、翡翠の胸の辺り。

「翡翠?」

 唖然としながらそう呼びかけると、緊張を解いた翡翠が構えを解き、俺達が立っていたホームの方をきっと睨んだ。
 その視線の先で俺の目を引いたのは、やけに背格好の低い駅員さんがひとり。女性? しかも、どう考えても大人じゃない。

「ご、ごめんなさぁ〜い!」

 そう言って人混みをかき分けて逃げていくその姿は、まるで昼の何かと点が繋がりそうで、繋がらない。何だったか、誰だったか……頭を悩ませていた、その時

「志貴さま、お怪我はありませんか?」

 優しい声。
 意識を向けると、そこには先程の厳しい表情はなく、いつも通りの、普通に朝起きて、ベッドの側で語りかけてくれるような翡翠がいた。いかにも落ち着き払った様子で微笑み、まるで何事もなかったようにしている。

「あ、ああ……」
「そうですか、安心し……まし、た……」

 俺はそれだけを伝えると満足そうに翡翠は微笑み、その言葉と共にゆっくりと倒れていった。

「翡翠!」

 俺は慌てて翡翠の元へと駆け寄ると、抱き起こす。

「しっかりしろ、翡翠、おい!」

 翡翠は意識を失ってしまったようで、呼びかけにも全く反応しない。俺はとにかく翡翠が倒れてしまった事に混乱して、何度も身体を揺さぶった。

「志貴さん!」

 そこへ琥珀さんが下りてきて、俺の行動を押さえるようにして肩に手を置いた。俺はそれにしがみつくようにして助けを請う。

「琥珀さん! 翡翠が!」
「分かってます、安心してください。魔力を消耗して気を失っただけです。とにかく今は、翡翠ちゃんを休ませる場所へ」

 琥珀さんは落ち着きそう言うと、どこからか呼び寄せていたほうきに跨り、翡翠を俺に背負わせる。俺が背中に翡翠の体重を感じながら柄にしがみつくと、琥珀さんは細心の注意を払って線路から飛び立った。こんな時ばかりは周りの目なんか気にしてはいられない、既に常軌を逸する現象が続いたのだから。

「翡翠……しっかりしろよ」

 辺りが異常さを騒ぎ立てる中、俺達は混乱の渦中を脱出していった。