「……くん、志……君」 すっごく遠くから、誰かが俺を呼ぶ声が聞こえる。 ……が、ゆっくりと視界が開けてくる時、そこに見える姿は翡翠ではなかった。 「志貴君、おはよう」 「あ……」 目を覚まし、ゆっくりと枕元に置いた筈の眼鏡を手に取る。そのままかちゃりといつものようにかけると、あの忌まわしい線は消える。 「おはようございます、朱鷺恵さん」 朝からなんて心地よい目覚め。 「うん、おはよう」 気付けば寝る前に引いておいたカーテンも開けられ、少し強い夏の日差しが気持ちよく部屋に入り込んでいた。 「……何分くらい、起こしてくれていましたか?」 それだけが気がかりで、それこそ長い時間だったら失礼だと思いつつ。 「うーん、炊飯器にお米をセットしてから来たけど……」 朱鷺恵さんはさして時間は気にしていないようだった。 「あ、丁度ご飯が炊けたみたいだね」 と言う朱鷺恵さんを見て、やっぱり悪い気持ちになった。 「うん。でも志貴君の寝顔を今までの分も一杯見られたから、時間なんて気にしてないよ」 まだ嬉しそうに、俺の事を覗き込むようにしている朱鷺恵さんの微笑みが、ちょっと目を合わせられない。 「……? どうしたの?」 そんな事を考えてるとは知ってか知らずか、朱鷺恵さんがぼうっと所在なさげにしているような俺に話しかけてくる。 「着替えますから、その……」 少し困った口調で俺が言うと 「あ……ゴメンね、着替えまで覗いたりしないから、先にリビングにいるね」 と、ちょっと恥ずかしそうになって部屋を出ていった。 いつもと同じような朝の筈なのに、物凄く幸せな気分になった。 「くうーっ」 朱鷺恵さんと一緒に生活してるんだ。 着替えてぼさぼさの髪を手櫛で何とか整えると、俺は部屋の戸を開けた。 「あ、もうちょっと待ってね」 と、朱鷺恵さんがキッチンで振り返りながら俺を見る。 「わぁ……」 純和食。 「ゴメンね、琥珀ちゃんみたいに手の込んだものは用意できないけど……」 と、朱鷺恵さんが謙遜するけど、そんなわけがない。 「何言ってるんですか、十分過ぎますよ」 俺はニコニコとしながら椅子に座ると、朱鷺恵さんが日本茶を差し出してから自分も座った。 「それじゃ……」 手を合わせ、朱鷺恵さんに感謝しながら二人で声を合わせた。 「よかった、口に合わないかなって心配したんだけど」 俺が嬉しそうに食べる姿を見て、朱鷺恵さんが微笑む。 「いいなぁ、料理が出来る人って。俺なんてカップ麺とカレーくらいしかできませんよ」 カレーだけは、シエル先輩の家でさんざん作っているから少しは自信がある。 「本当? でも志貴君の作るカレーも食べてみたいなぁ」 そう言われると、こちらとしては日頃の感謝も含めて作ってあげたいと思う。 「じゃぁ今度、腕によりを掛けて御馳走しますね」 俺が胸を張ると 「うん、じゃぁ勉強に差し支えない程度にお願いね」 やる気満々の俺に朱鷺恵さんは笑って答えてくれた。 「はい、今日から予備校だもんね、これどうぞ」 と、ハンカチに包まれた箱。 「……お弁当?」 まったく想定外だったので、驚いて目を見開いてしまった。 「うん。外で食べたりコンビニのお弁当とかだと、栄養が偏っちゃうからね」 さも当然のように、朱鷺恵さんが手渡してきた。 「そ、そんな! いいですよここまでしなくたって! 自分で用意しますから」 食事代は前もって秋葉から貰ったお金に入っている。それなのにわざわざ朱鷺恵さんにこんなことして貰うなんて、恐れ多すぎた。 「ううん、いいの。好きで私が作っているんだし、朝食を作るついでだと思えば何にも面倒じゃないから。それに……旦那様に自分で食事を作らせるような人っている?」 そう言う意味で言ったつもりの言葉じゃないのに、旦那様、という言葉は効いた。 「でもちょっとがんばりすぎたかも。志貴君の為にお弁当を作ってると思うと……ね」 と恥ずかしそうに言われると、言葉がなかった。 「……ありがとうございます」 俺は朱鷺恵さんに頭を下げていた。 「うん、必要のない日があったら言ってね」 朱鷺恵さんの笑顔が一層輝いて見える。そう感じた。 「それじゃぁ……」 と、リビングの時計を見ると丁度良い時間だった。 「旦那様をお見送り〜。なんてね」 と、俺の後ろからひょこひょこと朱鷺恵さんが付いてきた。またあの言葉にドキドキさせられながらも、顔を合わせないように靴箱から靴を降ろす。 「お帰りはいつになりますか?」 なんて靴をつっかける時に言われると、幸せな家庭の朝の風景を想像してしまった。 「そうだな、何もなければ5時くらいには」 今日は初日だし、いきなり道草も食うわけには行かない。 「わかりました。あ、そうだ。これ」 うやうやしく礼をしてから、朱鷺恵さんは大事な事を思い出したように服のポケットから何かを取り出して俺に渡した。 「この部屋の合い鍵だよ。私はいつも家にいるけど、もし何かあったら困るから、ね」 渡されて、何となくじっと見つめてしまう。 そうして朱鷺恵さんを改めてみると、何だかまだたくらんでいるような顔だった。 「志貴君」 と、ちょっとだけ意地の悪そうな顔で俺を見る。 「行ってきますのキスは?」 と、自分の唇に指を当て、誘うようにしてきた。 「えっ……?」 もう、朱鷺恵さんには完全に誘惑されっぱなしだった。 「ね?」 と、朱鷺恵さんが瞳を閉じる。 ちゅっ 少しだけ髪に触れながら、それだけ軽く口づけして離れると、朱鷺恵さんが凄くビックリしたように俺を見つめた。 「やだ……」 朱鷺恵さんの瞳が開かれると同時に、頬が一気に紅潮していくのがこちらからでも明らかに分かった。 「ちょっとからかうつもりだったのに、本当にしてくれたんだ……」 顔を真っ赤にして両手を頬に合わせ、恥ずかしくも嬉しそうにその感触を思い出しているように体を揺らす朱鷺恵さん。 「それじゃ、行ってきます!」 朱鷺恵さんがひとしきり喜んだのを見届けてから、俺はドアを開けて外に飛び出した。 「いってらっしゃい、志貴君」 ドアが完全に閉じるまで手を振り続ける朱鷺恵さんを最後に瞳に閉じこめながら、俺は揚々と予備校に向かっていった。
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