「……くん、志……君」

 すっごく遠くから、誰かが俺を呼ぶ声が聞こえる。
 それは、夢の中なんだろうなぁと自覚しつつも、見えない所から呼びかけるのは誰だろうと考えられない。
 ああ、俺、起きるのかな。
 そう考えると、きっと翡翠なんだろうといつもの事を思い出していた。

 ……が、ゆっくりと視界が開けてくる時、そこに見える姿は翡翠ではなかった。

「志貴君、おはよう」

「あ……」

 目を覚まし、ゆっくりと枕元に置いた筈の眼鏡を手に取る。そのままかちゃりといつものようにかけると、あの忌まわしい線は消える。
 さっきまでしっかりとその顔を見たくなかった人を、はっきりと見つめた。頭がぼうっとしているからか、普段なら恥ずかしいようなそんな行動も、全然気にならないでできる。

「おはようございます、朱鷺恵さん」

 朝からなんて心地よい目覚め。
 俺は自然に笑顔になり、朱鷺恵さんに挨拶を返していた。

「うん、おはよう」

 気付けば寝る前に引いておいたカーテンも開けられ、少し強い夏の日差しが気持ちよく部屋に入り込んでいた。
 俺は軽く頭を掻くと、そのまま起きあがった。そのままタオルケットを畳みながら、まだ俺を見つめている朱鷺恵さんに尋ねる。

「……何分くらい、起こしてくれていましたか?」

 それだけが気がかりで、それこそ長い時間だったら失礼だと思いつつ。

「うーん、炊飯器にお米をセットしてから来たけど……」

 朱鷺恵さんはさして時間は気にしていないようだった。
 が、開けられたリビングへのドアから、「ピー」という電子音が鳴った時

「あ、丁度ご飯が炊けたみたいだね」

 と言う朱鷺恵さんを見て、やっぱり悪い気持ちになった。
 飯盒炊飯だって、どれくらい時間がかかるかうろ覚えだったけど、明らかに長い事俺の横にいたみたいだった。

「うん。でも志貴君の寝顔を今までの分も一杯見られたから、時間なんて気にしてないよ」

 まだ嬉しそうに、俺の事を覗き込むようにしている朱鷺恵さんの微笑みが、ちょっと目を合わせられない。
 やはり恥ずかしい事この上ない。でも、無防備な寝姿を晒すのは、信頼している証拠。
 ……いや、それは翡翠に言うべき言葉か。少し意味合いが違った。
 寝姿を見せたい、見てみたいと思う、愛している証拠なのだ。
 だから、いつか朱鷺恵さんの寝顔も見てみたい、そう思ったりもした。

「……? どうしたの?」

 そんな事を考えてるとは知ってか知らずか、朱鷺恵さんがぼうっと所在なさげにしているような俺に話しかけてくる。
 考えてる事が顔に出そうで、やっぱりその顔を見られない。かわりに取り繕うように

「着替えますから、その……」

 少し困った口調で俺が言うと

「あ……ゴメンね、着替えまで覗いたりしないから、先にリビングにいるね」

 と、ちょっと恥ずかしそうになって部屋を出ていった。

 いつもと同じような朝の筈なのに、物凄く幸せな気分になった。
 翡翠がどうこう、というつもりではない。
 朱鷺恵さんが起こしてくれて、何気ない会話があるだけなのに。
 俺にとってそれは、ちょっとだけ甘酸っぱいような気分にさせられる出来事だった。

「くうーっ」

 朱鷺恵さんと一緒に生活してるんだ。
 噛み締めて喜びが改めて溢れ出していた。

 着替えてぼさぼさの髪を手櫛で何とか整えると、俺は部屋の戸を開けた。
 見るとダイニングの方の食卓に、食事が並んでいるのが見えた。

「あ、もうちょっと待ってね」

 と、朱鷺恵さんがキッチンで振り返りながら俺を見る。
 その間に洗面所で歯磨きと洗顔、やっぱり凄い寝癖を改めて整えてさっぱりと戻ると

「わぁ……」

 純和食。
 屋敷じゃなかなか味わえない素晴らしいものがそこにはあった。

「ゴメンね、琥珀ちゃんみたいに手の込んだものは用意できないけど……」

 と、朱鷺恵さんが謙遜するけど、そんなわけがない。
 ご飯に味噌汁、焼き魚に卵焼き。朝無精の自分じゃ到底用意できないような朝食がそこには並んでいた。

「何言ってるんですか、十分過ぎますよ」

 俺はニコニコとしながら椅子に座ると、朱鷺恵さんが日本茶を差し出してから自分も座った。

「それじゃ……」
「いただきます」

 手を合わせ、朱鷺恵さんに感謝しながら二人で声を合わせた。
 炊きたての白いご飯と、暖かい味噌汁。
 昔一寸だけお世話になった時よりも、もっとおいしい食事だった。

「よかった、口に合わないかなって心配したんだけど」

 俺が嬉しそうに食べる姿を見て、朱鷺恵さんが微笑む。
 シンプルなだけにちょっとした技巧で味に差が出る。
 考えると朱鷺恵さんの料理の腕は確かだと思わされてしまう。

「いいなぁ、料理が出来る人って。俺なんてカップ麺とカレーくらいしかできませんよ」

 カレーだけは、シエル先輩の家でさんざん作っているから少しは自信がある。

「本当? でも志貴君の作るカレーも食べてみたいなぁ」

 そう言われると、こちらとしては日頃の感謝も含めて作ってあげたいと思う。

「じゃぁ今度、腕によりを掛けて御馳走しますね」

 俺が胸を張ると

「うん、じゃぁ勉強に差し支えない程度にお願いね」

 やる気満々の俺に朱鷺恵さんは笑って答えてくれた。
 そんな楽しい会話を繰り広げ、食事も終わった。
 お茶を啜って、ああ日本人なんだなと実感する。
 ……と、朱鷺恵さんは頃合いを見計らったかのようにキッチンへ。
 何事かしてすぐに戻ってきたけど、その手には……

「はい、今日から予備校だもんね、これどうぞ」

 と、ハンカチに包まれた箱。
 これって……

「……お弁当?」

 まったく想定外だったので、驚いて目を見開いてしまった。

「うん。外で食べたりコンビニのお弁当とかだと、栄養が偏っちゃうからね」

 さも当然のように、朱鷺恵さんが手渡してきた。
 その箱を受け取ってしばし眺めた後、突然うろたえてしまった。

「そ、そんな! いいですよここまでしなくたって! 自分で用意しますから」

 食事代は前もって秋葉から貰ったお金に入っている。それなのにわざわざ朱鷺恵さんにこんなことして貰うなんて、恐れ多すぎた。

「ううん、いいの。好きで私が作っているんだし、朝食を作るついでだと思えば何にも面倒じゃないから。それに……旦那様に自分で食事を作らせるような人っている?」
「なっ……」

 そう言う意味で言ったつもりの言葉じゃないのに、旦那様、という言葉は効いた。
 というか胸に突き刺さる程直撃だった。
 それって事は……確かにこうやって同じ部屋で生活しているのは建前は居候だけど、他人からしてみれば、その……
 俺が最大級に顔を紅くしているのを見て、朱鷺恵さんもそれに気付いたらしく

「でもちょっとがんばりすぎたかも。志貴君の為にお弁当を作ってると思うと……ね」

 と恥ずかしそうに言われると、言葉がなかった。
 嬉しい、嬉しすぎるのだ。
 朱鷺恵さんの手弁当。普段から昼食はパンなり学食だったりする俺にとって、手作りのお弁当というのは夢のまた夢であった。
 それが今ここに現実としてあると思うと、弁当を投げ上げながら小躍りしたくなる程だった。

「……ありがとうございます」

 俺は朱鷺恵さんに頭を下げていた。
 改まった言い方になってしまった、それは何だかすまないと思う気持ちも持ちながら、心遣いに感謝の極みだったからだ。

「うん、必要のない日があったら言ってね」

 朱鷺恵さんの笑顔が一層輝いて見える。そう感じた。

「それじゃぁ……」

 と、リビングの時計を見ると丁度良い時間だった。
 俺は部屋に戻ると、前日の家に用意していたナップに、背負っている間に片寄らないように一番下へ弁当を詰め込み、それから玄関に向かった。

「旦那様をお見送り〜。なんてね」

 と、俺の後ろからひょこひょこと朱鷺恵さんが付いてきた。またあの言葉にドキドキさせられながらも、顔を合わせないように靴箱から靴を降ろす。
 琥珀さん達の見送りと違って、マンションというイメージからなんだか本当に会社行く前の気分になってしまった。

「お帰りはいつになりますか?」

 なんて靴をつっかける時に言われると、幸せな家庭の朝の風景を想像してしまった。

「そうだな、何もなければ5時くらいには」

 今日は初日だし、いきなり道草も食うわけには行かない。
 俺は朱鷺恵さんの調子に合わせ、振り返りながらすこしだけ偉そうに答えた。

「わかりました。あ、そうだ。これ」

 うやうやしく礼をしてから、朱鷺恵さんは大事な事を思い出したように服のポケットから何かを取り出して俺に渡した。
 それは、キーホルダーに付けられた鍵だった。

「この部屋の合い鍵だよ。私はいつも家にいるけど、もし何かあったら困るから、ね」
「あ……」

 渡されて、何となくじっと見つめてしまう。
 女性に部屋の合い鍵を渡される。なんだか感慨深い光景だなぁ。ちょっと浮気っぽいってイメージがあるけど。
 俺はそう思いながら鍵をポケットにしまい込んだ。

 そうして朱鷺恵さんを改めてみると、何だかまだたくらんでいるような顔だった。

「志貴君」

 と、ちょっとだけ意地の悪そうな顔で俺を見る。

「行ってきますのキスは?」

 と、自分の唇に指を当て、誘うようにしてきた。

「えっ……?」

 もう、朱鷺恵さんには完全に誘惑されっぱなしだった。
 ドキドキしながらも、俺は立ち止まったまま。

「ね?」

 と、朱鷺恵さんが瞳を閉じる。
 ……ここで黙ってドアを抜ける事など、許される訳無いよなぁ。
 それに何より……そうされちゃ俺の中の男が黙っていなかった。軽く俺の中でぷつっと何かが切れるような音がする。
 俺は覚悟すると、少しだけ玄関との段差がある分、こちらが上向きになって唇を触れさせた。

 ちゅっ

 少しだけ髪に触れながら、それだけ軽く口づけして離れると、朱鷺恵さんが凄くビックリしたように俺を見つめた。

「やだ……」

 朱鷺恵さんの瞳が開かれると同時に、頬が一気に紅潮していくのがこちらからでも明らかに分かった。

「ちょっとからかうつもりだったのに、本当にしてくれたんだ……」

 顔を真っ赤にして両手を頬に合わせ、恥ずかしくも嬉しそうにその感触を思い出しているように体を揺らす朱鷺恵さん。
 ちょっとだけ俺も驚いたが、その反応ににやりとしてしまう自分もいた。
 からかわれたつもりが、最後に虚をつけた。
 なんだか朝の分全てのお返しだと思うと、ちょっとだけ自分の積極的な行為が嬉しく思えた。

「それじゃ、行ってきます!」

 朱鷺恵さんがひとしきり喜んだのを見届けてから、俺はドアを開けて外に飛び出した。

「いってらっしゃい、志貴君」

 ドアが完全に閉じるまで手を振り続ける朱鷺恵さんを最後に瞳に閉じこめながら、俺は揚々と予備校に向かっていった。


 









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