二人で笑ったあと、何となく会話が途切れてしまった。
 どちらから話すでもない、少しの静寂。

「ねえ、本当にそれだけ?」
「……え?」

 いきなり、朱鷺恵さんがそう言ってきた。
 どういう展開が朱鷺恵さんの中で行われたのか、ワカラナイ。
 なにが「それだけ」だと言うのだろうか。

「勉強しに来た。私の部屋に来たのはそれだけなの?」

 朱鷺恵さんの言葉に、俺は気付いていたのか、気付いていなかったのか。
 優しく甘えるように、しかし艶の含んだ瞳で見つめられて、俺の胸はきゅっと締め付けられたようになった。

 それは……

 でも、今は裏に隠された言葉の意味を探るより、素直に答えるしかなかった。

「……一緒に、いたかったから」

 素直に想いを伝えるようにして、でも面と向かって言える程勇気もなく。
 俺は、少しだけ視線を逸らしながら答えた。

「え?」
「ここに来た理由。他に理由なんて……必要ですか?」

 鼻を掻きつつ、自分でもかなり恥ずかしい事を言っているのが分かった。
 でもそれは本心で、決して偽る事の出来ない事であったから。
 素直に、告白した。

「……そう、なんだ」

 流石の朱鷺恵さんも、俺のこの発言には驚いたのだろう。しばらく、言葉がなかった。
 頬を赤らめもじもじとしている仕草を見て、あまりにむず痒い思いがした為、大声を上げてこの場を離れたい衝動に駆られた。

「うん、嬉しいよ」

 そんな中、朱鷺恵さんはそれだけ言うとまた微笑んでくれた。

「うん……」

 その笑顔に、何だかこちらが気恥ずかしくなってしまい、今度は俺が言葉を失う番だった。
 そのまま朱鷺恵さんも、俺の言葉を噛み締めるようにして何も言わない。
 いつまでも続くと思われる、この沈黙。
 打破したいのに、そのためにこの唇を動かすのが、躊躇われた。
 何を言っても、この音の無い空間に吸い込まれて霧散してしまいそうに思える。
 それはこの部屋の、この広さに一因があるのかも知れない。

 だけど、このままじゃいけない。
 俺は静けさをうち消すように残ったアイスティーをひと飲みして、朱鷺恵さんに尋ねた。

「朱鷺恵さん……こんなところにずっと暮らしていて、寂しくありませんでしたか?」

 あの時から、空気が変わっているのが分かった。
 それでも俺は、敢えて冷静を装うようにして尋ねていた。
 朱鷺恵さんは、一度だけくるりと部屋を見渡し、それから……俺をじっと見つめてきた。

「そうね……志貴君がいないから、寂しかったよ……」

 その瞳は艶濡れていて美しく、奥に光るものには色を隠す事が出来ないような何かがあるように思えた。

「あ……」

 俺は、しまったと思いつつも、その瞳に吸い寄せられるように言葉を失ってしまっていた。
 見つめ合う、ふたり。
 自分の心臓の音だけが大きく聞こえるようにして、なのに時が止まっているようだった。

 なんて言葉を、俺はこの人にかければいい?
 俺には今、そんな簡単な質問にも答えられる思考がなくなっていた。
 声を出そうにも、喉がぺったりと張り付いたようで息が出来ない。
 そんな瞬間が、永遠に続くのかと思った時

「……なんてね、冗談だよ」

 朱鷺恵さんは沈黙を破るように、いつもの笑顔に戻って笑ってくれた。
 そんな変化に、俺は安堵の色を隠せなかった。

「なんだ……朱鷺恵さん、驚かさないでくださいよ」

 俺はわざとおどけたように、さっきの恥ずかしさを誤魔化すようにして笑っていた。
 ……だというのに

「……嘘」
「え……?」

 朱鷺恵さんは小さくそう言うと、もう一度俺を見つめてきた。
 その真剣な瞳に、俺はもう一度吸い込まれる。

 朱鷺恵さんの瞳に映るのは、俺だけ。
 そして俺の瞳には、朱鷺恵さんだけ。

「……冗談なんて、嘘。私、志貴君に会えなくて、本当に……物凄く寂しかった……」

 あの時から、変わっていない筈の朱鷺恵さんの姿。
 その筈なのに、今は明らかに違う朱鷺恵さんがいた。
 心の中で想い続けていたイメージが、またひとつ崩壊したような気がする。
 それはいつも俺をそうやってからかい続けていた朱鷺恵さんが、もう一度素直になった瞬間だったのかも知れなかった。

「ダメね、私。どうして、素直に言えないんだろう……」

 朱鷺恵さん。
 首を振り、自分を戒めるようにして言葉を紡ぐ。
 射竦められたように、俺は動けなかった。
 その一瞬、朱鷺恵さんは俺から視線を外して、俯いていた。
 何かをまるでずっと我慢していたような表情。
 今まで一度も見せてくれなかったような表情に、俺は胸を締め付けられるような思いと共に、激しい愛しさを覚えていた。

 それから。
 少しだけ涙顔で、朱鷺恵さんは溜まっていたものを吐き出すかのように唇を開いた。

「志貴君……会いたかったよ……」

 そんな事を言われて、どうにかならない方がどうにかしていた。
 体は自然と動き、テーブル越しに身を乗り出していた。
 難しい体勢の中バランスを崩しながら、朱鷺恵さんの肩にゆっくりと触れた。

 ぴくりと、朱鷺恵さんの肩が震えた。
 それから、潤んだ瞳で俺を見つめてくる。
 間近で見せられたそんな顔に、俺の全ての理性が崩壊しそうになる。
 だが
 違う。そんな想いじゃない。
 俺は強い想いでそれを抑え込んだ。
 だから、ゆっくりと、俺は顔を近づけて……

 その柔らかい唇に、優しく触れていた。

 その柔らかさを、忘れている訳がなかった。
 今まで触れたどんな唇よりも、何よりも甘く優しく嬉しい刺激。
 もう一度触れられたその感触は、俺の体に爆発するような喜びとなって伝わった。

 触れながら、目を開いて、その姿をじっと見つめる。
 瞳を閉じる朱鷺恵さんの姿が、俺の視界全てを覆っていた。
 嬉しそうに瞳を閉じているその端から、少しだけ光るものが見えたような気がした時

 ピンポーン

 非情にも、来客を告げる呼び鈴が鳴った。
 俺は、名残惜しくも顔を離す。

「……」

 ぼうっとしたままの朱鷺恵さんが、ゆっくりと目を見開き、俺を見た。

「あ……」

 今、初めて唇が離れたのに気付いたように、少しだけ寂しそうな顔を見せた後

「……」

 満面の笑みを浮かべて、俺を見つめてくれた。
 俺も、そんな朱鷺恵さんと一緒に微笑んで、見つめ合った。

 ピンポーン

「……あ」

 もう一度の呼びかけに、ようやく二人は現実を思いだしていた。

「はーい」

 朱鷺恵さんが玄関へと小走りで向かっていくのを見送りながら、俺は自分の運の悪さに頬を抓るばかりであった。



 









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