「自分で勉強しろと言った建前、俺を止める事なんて出来なかったんじゃないんですか?」

 俺は、電話をしている最中のあの秋葉の青ざめた表情を思いだし、少しだけ意地の悪い笑みを見せた。

「そうかもね。秋葉ちゃん、まさか志貴君がここまで切れ者だとは思わなかったのかもね」

 朱鷺恵さんは俺を感心するように、でもからかうように言ってきた。

「あー、それ酷いなぁ。それじゃまるで、俺が普段からぼーっとしているだけの人みたいじゃないですか?」

 俺は反論する。すると

「あら、違うの? 散々私に気を持たせておいて、全然相手にしてくれなかったのに? 私は散々志貴君の事を想って心を乱していたのに、酷いわ」

 朱鷺恵さんは大げさに自分の体を抱き、首を振りながらいやいやとした。それから、むーと言った表情で俺を見る。でも、その瞳は笑っていた。

「う……それとこれとは話が……」

 そんな朱鷺恵さんの小悪魔ぶりに、俺はうろたえるしかなかった。
 俺の表情を見て、朱鷺恵さんはくすっと笑い

「ふふっ、冗談よ」

 といつもの笑顔に戻っていた。

「それにしても、あの時の志貴君の行動力ったら凄いね。感心しちゃった」

 受話器越しの会話を思い出してか、朱鷺恵さんもくすっと笑っていた。

「でも……そうしてくれたから、今ここに志貴君がいるんだよね」

 そう言って嬉しそうに俺を見つめる朱鷺恵さん。
 なんだか恥ずかしくって、俺は照れ笑いを浮かべながら頭を掻いてしまった。

 あれから話は面白いように全て順調に進んだ。俺が理由を話すと、朱鷺恵さんは二つ返事で了解してくれた。
 それから秋葉が受話器を俺から奪い、朱鷺恵さんと話していたようだったが、しばらくすると最初は威勢の良かった秋葉も次第にシュンとしてしまった。
 どうやら受話器の向こうで、朱鷺恵さんに上手く言いくるめられてしまったらしい。
 自分でも整合性のある話だと思っていたので、秋葉を説得する自信があったのだけど、朱鷺恵さんにそれをして貰えるとは思わなかった。

 結局俺に変わらずそのまま受話器を落とした秋葉が、俺に向かって寂しそうに呟いた。

「そうですよね……兄さんの為ですものね……分かりました」

 秋葉の言葉で、俺の上京はあっさりと決定したのだった。
 それから予備校選びから申し込み、1ヶ月とはいえ居候する為の荷造りと、まるで遠足を待ちこがれる小学生のように夏休みまでの日々を過ごし。
 そうして遂に今日、ここにやって来たのだった。

「朱鷺恵さん。あの時秋葉になんて言ったんですか?」

 俺は結局秋葉の口から語られる事の無かった言葉を、本人に伺う事にした。
 秋葉が顔を赤らめ、それからうん、うんと頷いていた言葉。
 余程秋葉に強烈な一言だったのだろうと推測するそれを、秋葉の口からは聞き出せないでいた。

「ああ、あれね。志貴君、知りたい?」

 朱鷺恵さんもそのことを思い出し、クスリと笑っていた。そして、少し勿体ぶってから口を開いた。

「『男の人の我が儘を聞いてあげるのも、女の人の役目だよ』って言ったのよ」
「へえ……」

 その言葉は、何だが物凄く嬉しかった。
 確かに俺の事を気遣いつつ、秋葉にも強く響く一言であった。

「秋葉ちゃんの事を考えて、敢えて「兄妹」って言葉を使わなかったのが良かったんだろうね。秋葉ちゃん、小さな声で「男と女……」って繰り返してたわよ」
「あ……」

 朱鷺恵さん、秋葉の事を本当によく分かっていた。恐らく「兄妹」という言葉に置き換えたら、普段の秋葉なら反対したに違いない。それを黙らせる「男女」という言葉。策士ここにあり、といった感じだった。

「どうだったの? それから秋葉ちゃんに迫られた?」
「え?」

 突然自分の身に話が向けられ、俺はうろたえた。

「いや……」
「ふうん、顔を赤らめて答えられないと言う事は……やるわねえ、お二人さん」

 そう言われると返す言葉がない。俺は真っ赤になって俯くしかなかった。同時に、ちょっぴりの罪悪感。

 そうだ。
 俺は悪いとは思いつつも、みんなと関係していた。
 みんながそれぞれに了解してくれているけど、一度に何人もの女性を相手にするなんて、道徳的に許された事じゃない。
 でも、俺にはそれが出来なかった。その時はみんながみんな魅力的で、一人を選べないからだと思っていた。
 それを知っている朱鷺恵さんも、何も言わなかった。
 体は関係しても、心は繋がらない。
 俺はなんて非道い男だろうか、そう思っていたりもした。

 でも、こうして考えてみると全てが違っていた。
 俺は、朱鷺恵さんに今もあこがれ続けていたのだ。
 心の中では、始めから一人に決まっていたのだ。

 だから、今面と向かってそう言われると、改めて罪悪感を感じずにはいられなかった。

「まぁ……確かに認めます」

 秋葉はあの日から、確かに積極的に俺を求めた。
 俺も我が儘を聞いて貰った以上、それに無下に断るわけにはいかなかった。
 昨日の晩も、しばらく会えないからと言って、今まで以上に求め、奉仕してくれた秋葉の事を思い出した。
 あの時は流石に出ていく自分に後ろめたさを感じた。

「兄さん、兄さん……」

 そう言って全身で奉仕してくれる秋葉に、心を動かされそうにもなった。
 でも、俺はそれを振り切ってやってきた。
 朝、家を出る俺に見せた秋葉の物凄く寂しそうな涙顔が、少しだけ心に痛む。

 秋葉だけじゃない。みんなそうだったのだろう。でも誰も文句を言わず、俺の決めた事を黙って後押ししてくれた。
 ありがとう。そしてゴメン。
 俺は心の中でそう謝って、電車に乗り込んできたのだった。

「でも朱鷺恵さん、俺はそんなつもりじゃ」
「分かってるよ、志貴君」

 俺が言い訳しようとするのを遮って、朱鷺恵さんは優しく俺を見つめた。

「多分、私が秋葉ちゃんと同じ立場だったら、志貴君を絶対に引き留めたと思う。そうしなかったんだから、秋葉ちゃんは強い女の子だよ」

 朱鷺恵さんの言葉が、強く響いた。
 こんな時にも相手の事を気遣う、そんな朱鷺恵さんがたまらなく愛おしかった。
 そして……もっと自分を、朱鷺恵さん自身を見せて欲しい。そう思わずにはいられなかった。

「だから、ここまで来た以上は志貴君にはがんばって勉強して貰わないとね。私も協力するわ」

 朱鷺恵さんはやけに張り切って、握り拳を作るようにして俺を見る。

「そうですね、よろしくお願いします、朱鷺恵さん」

 これからお世話になるのだから、ちゃんとしないと。そう思って俺は、頭を下げていた。

「こちらこそよろしくね、志貴君」

 朱鷺恵さんも頭を下げ、それから二人して上げると

「ふふっ……」
「あはは……」

 何だかおかしくって、二人して笑ってしまった。

 凄く、幸せだった。
 こんなにもゆっくりと、時が流れてゆくだなんて。
 目の前には今、優しい人がいる。
 少しも不安を感じさせない、そんな穏やかな笑顔が俺を包み込むようにそこにある。
 そんな笑顔を独り占めできる自分を、これほど幸せに思う事はなかった。


 









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