「どうして兄さんはそんなに呑気でいられるんですか!?」

 丁度一ヶ月程前。
 期末テストも終わり、俺はいつも通り応接室でお茶を飲んでいた。結果はさほど気にする事もないから、明日からのテスト休みについて何となく有彦とバカやるかとか、シエル先輩の所でカレーパーティーでもやるかとか考えていたところだった。
 そんな姿を見て、秋葉は何か気に入らなかったらしい。部屋に入ってきて俺を見るなり、そう当たり散らしてきたのだった。

「……って、テストで人生が決まる訳じゃないんだから」

 と、俺は自分なりの正論を言ったつもりだった。が

「いいえ、もっと遠野家の人間らしく、ちゃんと勉強をしてください!」

 秋葉は自分のテストの結果が不甲斐なかったのだろうか、八つ当たりにも思えた。

「せめて良い大学に進学して、そこで経済学とか勉強して貰わないと……兄さんが遠野家の当主として威厳を持って貰わないと、私……」

 そう言って秋葉が少し複雑な顔をする。
 そっか、俺は一応遠野家の長男。いつかは秋葉の代わりに当主となるのかも知れない。
 今まで秋葉に苦労させてしまった分、その償いとでも言うべきか、俺が秋葉を引っ張ってあげなきゃいけないのかもな。
 ゴメンな、秋葉。俺は悪いお兄ちゃんで。
 折角俺がそう思っていたのに

「兄さんには、私に相応しい男性であって欲しいのですから……」

 と、秋葉は顔を真っ赤にしながらそう言った。

「あ?」

 俺はちょっとだけ間抜けな顔になってしまった。秋葉は酷い勘違いと妄想をしているようだ。

「だって血が繋がっていないのですし、それなら愛する二人の間に問題なんて無いじゃないですか。兄さんが当主で私がサポート役……ああ何て美しい姿なんでしょうか」

 既に目がうっとりと遠くを見つめてしまっていて、俺には追いつけない世界に行っていた。

「あのー、秋葉さん……?」
「それで、それで、いつかは兄さんとの間に一男二女をもうけて、遠野家の未来永劫の発展の為に二人で愛の教育を施すんです。きゃっ!」

 部屋の片隅では、翡翠がいつものようにすましているが、その心中はどうだろうか。アニとして少しだけ情けなくもすまなく思ってしまった。

「……とにかく、秋葉は俺が勉強してくれればいいんだろ?」

 俺が秋葉の妄想を断ち切るように話を進めると

「……そ、そうですっ! 兄さんは3年生なんですから、受験勉強も始めなくてはいけない時でしょう?」
「あ、あー」

 言われてみればそうだった。そろそろ俺も遅ればせながら進学を考えないといけない。有彦はフリーターとかで落ち着きそうだったからそういう空気を感じなかったが、クラスメイトは大学を選び出したり、勉強を始めていたりした。

「わかった、俺なりに考えてみるよ。翡翠」
「はい、志貴さま」
「部屋に戻るね。後片付けをお願い」
「かしこまりました」

 そうか、もうそんな時期なんだよな……

 部屋に帰ると、秋葉に言われた事を思い出していた。
 確かに、行ける大学に行けばいいやとか安易に考えていたけど、今の自分の成績を考えると、それさえも怪しい所にあるかも知れなかった。模試とか受けても、適当に選んだ有名大学はことごとくDやE判定、つまりは合格より不合格の可能性が大きいと冷静に答えられていたし。
 ならば……今まで散々遊んできたツケかも知れないが、予備校にでも……と思う。
 しかし、問題はあった。有彦は多分夏休みを謳歌しようと、俺を誘ってくるに違いない。そうなると普段の俺の事だから、勉強は放って付き合いそうだな。そんな自分のだらしなさに苦笑する。

「なら……あ」

 俺は、ふと思いついた。
 というよりも、それを思いついた時、灰色の受験勉強生活に、一筋どころか幾重にも重なる光が差し込んできたような気がした。

 

 

 

「秋葉、決めたよ。予備校に通う事にする」

 その日の夜、食事後の団欒の中俺は秋葉に告げた。

「えっ?」

 秋葉は俺の即断に少々驚いたようだった。それから少し寂しそうな顔を見せる。

「そんな……家で家庭教師を雇ったりとかして、兄さんがわざわざ出る事はないのに……そうすればもっとお話もできるのに……」

 秋葉はどうやら、俺と一緒に夏休みを過ごしたかったらしい。なのに自分が言い出したとはいえ、勉強の為に普段と変わらないような生活になってしまうのかと、残念そうだった。

「これは秋葉を思っての事だ。許してくれ」

 俺が頭を下げると、「秋葉を思って」と言う言葉が効いたか、秋葉は黙ってしまった。

「私のため……それはまぁ、仕方ないですが……」

 ごにょごにょと顔を赤らめ、俯いて口籠もる秋葉は見ていて可愛かった。しかし、俺はそんな秋葉に続けて提案をした。

「と言うわけで、どうせ行くなら少しでもレベルが高い方がいい。だから俺は東京に出ようと思う」

 その一言は、秋葉にとってみれば衝撃の一言だったに違いない。

「ええっ!?」

 がたんとソファーを揺らし、慌てたように立ち上がった。

「東京って、ここから通うんじゃないんですか!?」
「それも考えた。けど、周りに友達がいる環境じゃつい手を抜いてしまうに違いない。俺の性格を分かっているなら分かるだろ?」
「それはまぁ……」
「だから、出来れば知り合いが少ない世界の方がいい。その方が集中できるし、自分の為にもなる」

 いかにも正論を並べ立てて、俺は秋葉を言いくるめた。

「それは、その……確かにそうですけど……」

 秋葉は混乱したように、しかし俺の言葉に反論できないでいた。

「でもっ、住まいは、住まいはどうするんですか?」

 秋葉は俺をここに引き留めようと、それでも必至に抵抗した。
 しかし、俺にはそこまでも予想済みだった。切り札とも思えるカードを引き出しながら、俺は答えた。

「大丈夫、朱鷺恵さんの家がある」
「ええええっ!?」

 朱鷺恵さん、と言う言葉に秋葉は今まで以上の衝撃を受け、絶句してしまった。それどころか、秋葉の横にいた琥珀さんや俺の後ろに控えていた翡翠までもが驚いているようだった。

「ほら、朱鷺恵さんあっちの大学に進学しているだろ? それに部屋も空いているようだから、昼間は予備校に通っている俺くらいが少しの間居候したところで問題はないはずさ」

 時南朱鷺恵

 さっき自分の部屋でその人の名前を思い出した時、姿を思い出した時、言い表せない喜びを感じていた。
 それどころか、もう痛まないはずだった胸が早鐘を打って、痛みを覚えていた。

 丁度去年の夏。
 この部屋に来てくれた時、見せてくれたあの笑顔が忘れられなかった。
 俺の初恋の人で、ずっとあこがれ続けていた人。
 少しだけお姉さんで、いつか追いつきたいなと思っていた人。
 俺の事を本当の弟みたいに、ずっとかわいがってくれた人。

 そして……俺の初めての人。

 誰よりも大切にしたい、絶対に離したくないと、初めて感じさせてくれた人だ。
 俺の事をからかうように「もう一度しちゃってもいい」なんて言っていたけど、俺にはその言葉が忘れられなかった。

 もう一度、やり直してもいい……

 朱鷺恵さんの言葉に、俺はその含みを感じずにはいられなかった。
 止まっていた時計が、もう一度ゆっくりと時を刻み出す様に。
 自分の中に忘れていた甘い思い出が蘇っていた。
 忘れていた、あの夏の夜。
 心をゆだね、体をひとつに重ね合わせたあの夜。
 一瞬でも忘れていた自分が、あまりにも酷い存在だと思った。

 「遊びに来て」とは言われながらも、どうしてもそのきっかけを掴めないでいた自分。
 朱鷺恵さんに逢いたい日々は、日常にまみれても、少しも色褪せる事など無かった。

 秋葉、翡翠、琥珀さん、シエル先輩、そしてアルクェイド……
 俺のそばにいる女性達に、俺は何度も振り回され、そして愛されてきたと思っていた。
 でも……でも。
 俺はいつも心のどこかに、忘れられない光を持ち続けていた。

 そんな俺の我が儘を、彼女たちは受け入れてくれないのかも知れない。
 優柔不断の挙げ句、自分たちとは違う存在を選ぶ事を。
 だけど。
 何と言われようとも、自分の気持ちに嘘を付けない。
 嘘を付いて誰かを愛する事など、不器用な俺には絶対に出来なかった。
 許してくれ、とは言えない。でも、許して欲しかった。

 俺は、遠野志貴は。
 時南朱鷺恵を、愛したいと。

 だから、俺は思いだしていたのかも知れない。
 このチャンスを、待っていたのかも知れない。

 俺は口に出した時、はっきりとそう自覚していた。それは今までで一番意志の籠もった声。
 この屋敷に来て求めようとしなかった俺の、初めての我が儘だった。

「ですけど……こちらの一存ではそんな事は決められません……」

 秋葉は俺の瞳に、俺の思いを感じ取ってしまったのかも知れない。
 もしかしたら、秋葉の心の中にあった不安が、一気に具現化してしまったのかも知れない。

「大丈夫。俺が自分で話を付けるから」

 そう言うと、俺は立ち上がった。そのまま部屋を抜け、ホールの隅にしつらえた電話を取り、前もってポケットに忍ばせて置いた紙切れを取り出していたのだった。
 ナイフと一緒に、引き出しに仕舞ってあった小さなメモ。
 俺はそれを見ながら勢いでダイヤルを回す。
 短い呼び鈴の後、俺の全ての緊張を一気に吹き飛ばすように、その声は聞こえていた。

『……はい、時南です』








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