「はぁ……」

 部屋に入ると、俺は真っ先にため息をついてしまった。
 マンションと聞いていたけど、朱鷺恵さんが一人で生活していると言うから、てっきり部屋が2つ位しかなくて、せめてダイニングがある位と思っていたのに……

「これは、広すぎるよなぁ……」
「そう? 慣れれば気にならないわ」

 俺を中に迎え入れた朱鷺恵さんはお茶を用意しながら、台所でこちらを振り返った。エプロン姿でそう言われると、物凄くこちらが恥ずかしい気持ちになる。
 台所と言っても、そこは遠野家に比べると狭いのは当たり前だが、朱鷺恵さんが一人で生活するには物凄く広いと思った。
 リビングダイニングだけで目算で20畳。そして部屋は、廊下でひとつ浴室ではないドアを確認して、更にリビングから2つのドアが見えるから、3つ……? 立派に一家族以上が生活できるような部屋であった。

「何でも、遠野家の方がこちらに出てきた時に使うように用意していて、今はもう使わなくなった部屋だって。売るのも面倒だからそのままになっていたのを、私がこっちに進学する時に借り受けたのよ」
「そうだったんですか……でも」

 その説明に、バブル時代のマンション事情を何となく考えてしまった。恐らく、都心のこんな一等地のマンションなんて、億は下らなかったのではないだろうか。改めて、遠野家がどういう家なのかが分かったような気がした。

「志貴君、外は暑かったでしょ?」

 と、まだくるくると部屋に視線を投げかける俺の前に、お盆を持って朱鷺恵さんがやってきた。そのまま俺の座るソファーの向かいに腰掛け、ガラスのテーブルに氷の詰まったグラスを置いた。注がれる紅い液体。ピシピシと小気味よい音を立てて氷が軋み、溶け出す。

「はい、どうぞ」

 と、朱鷺恵さんはマドラーでかき混ぜたそのアイスティーを俺の前に差し出した。ガラスのテーブルにコトリと置かれるそのグラスを、俺は嬉しく手に取った。

「ありがとう。いただきます」

 俺は早速その液体を流し込んだ。喉を通るその心地がたまらない。外の猛暑で汗をかいた体に染み渡るようで、体温が一気に下がる様だった。

「はぁっ」

 俺は大半を飲み干して、端から見ればそりゃ幸せそうな顔でグラスを置いたと思う。

「ふふっ。志貴君、まるで砂漠を歩いてきたみたいね」

 朱鷺恵さんは、そんな俺を見て面白そうに笑った。

「そうですよ。この広い東京砂漠、住所だけで探すの結構苦労しましたからね」

 そんな朱鷺恵さんに、俺は冗談交じりに返す。
 だが実際、駅からそれほど距離もないはずが、どこを見ても同じような区画であるがため、このマンションを見つけるのにかなり骨を折ったのは朱鷺恵さんには恥ずかしくて言えなかった。

「そうだったの……駅で電話してくれれば良かったのに」

 朱鷺恵さんはそう言って俯き、少しすまなそうにしたから

「いいんですよ。こっちに来たのは俺のワガママなんだから、そこまで朱鷺恵さんに迷惑はかけられませんって」

 俺はぱたぱたと手を振り、慌ててそれを否定した。

「……そう?」

 少し不安そうに上目遣いで俺を見る朱鷺恵さん。
 その仕草が物凄く可愛くて、綺麗で、愛らしくて、ドキッとして、思わず唾を飲み込んでしまった。

「そうですって」

 顔を赤らめ、俺は目を反らしながら答えた。

「なら、よかった」

 嬉しそうに手を合わせ、にこっといつもの笑顔に戻る朱鷺恵さんが本当に可愛いと思った。

 ころころと表情を変えるこの人のこんな所が、俺は大好きで。
 朱鷺恵さんに転がされてるとは思いつつも、ついそれに流されてしまう自分がいる。
 そんなところが朱鷺恵さんと似ているのかな、自分は。そう思ったりもする。

 こうして他愛のない会話だけでも、どんどん朱鷺恵さんの事を好きになっているみたいで、凄く幸せな気持ちだった。

「そう言えば志貴君、さっき俺のワガママって言ったけど……良くこっちに来れたよね?」

 ふと、思い出したように朱鷺恵さんが俺に聞いてきた。

「え? ……ああ、それですか」

 俺はそんな朱鷺恵さんの質問に、事の成り行きを思い出し、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべてしまっていた。

「秋葉ちゃんの事だから、「夏休み位は屋敷で一緒にいて下さい!」位は積極的に志貴君に迫ると思ったんだけど……」

 朱鷺恵さんは半ば冗談というように、俺をからかうように見つめてきた。その証拠に、瞳は決して嫉妬にまみれたそれではない。明らかに俺の反応を楽しんでいた。

「まぁ、普通だったらそうなったかも知れませんけど、今回は秋葉の身から出た錆ですからね」

 そう言うとアイスティーを一口して、今日までの秋葉の反応を思い出していた。

「それに、朱鷺恵さんのお陰でもありますよ」


 









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