……歩き回っていたからか、それとも心が疲弊していたからか
 貧血にも似た感じで、俺はいつの間にか眠ってしまっていたらしかった。
 瞼を明けぬまま、光を感じないので時間はもう夜なのかと思う。
 ビデオは……かすかにテレビの付いた音がするから、眠っている間に終わってしまったのだろう。
 それ以外には、壁の時計が時を刻む音のみ。

 ああ、この秒針の音を数えるうちに
 ふっと、秒針が止まって
 そのまま、俺の時も止まってしまえばいいのに

 気怠さに動く力もなく、また後悔を始めていた矢先。

 カチャ……カチン

 鍵を回す音が、聞こえた。
 そうして……誰かがゆっくりと部屋の中に入ってくる音。
 ふっと強まった気配が、俺のそばでする。

 プツン

 テレビの電源を切る音が聞こえ
 心地よい香りが、俺の鼻腔をくすぐった。

「朱……鷺恵さん……?」

 信じられなかった。
 涙でぐずぐずだった瞳をこじ開けると、そこには朱鷺恵さんがいた。
 屈み込むようにして、俺の顔を覗き込んで。
 その瞳は、いつもの笑顔と、ちょっぴりの悲しみに彩られていた。

「ど……うして……?」

 ワカラナイ。
 これは俺の見せた夢か幻なのか。
 なのに、その存在だけは夢とも思えない程はっきりとしていて。
 確かにこれは現実で、朱鷺恵さんは俺の目の前にいるんだと理解していた。

「うん、帰って来ちゃった」

 朱鷺恵さんは、舌を出しながら答えた。

「今日ね……学校のゼミの実験だったの。生体化学は、実験が長期化するから、泊まり込みなんて良くあるんだけど……ね……」

 そう言って、朱鷺恵さんは笑う。
 のに、笑ったそばから涙が溢れてきた。
 ぽろぽろと、頬を伝う涙を拭おうともせずに、朱鷺恵さんは笑顔で続けた。

「ねぼすけさんが、予備校に行ってないか心配だったのよ」

 からかうようにして、俺を見つめた。

「……私、もう志貴君がいないとダメみたい……」

 すると、朱鷺恵さんは初めてそこで涙を拭った。
 ぬぐい取ったその表情は、悲しみが全てだった。

「志貴君……ゴメンね……」

 朱鷺恵さんは、嗚咽しながら俺の眠ったままの首筋に腕を絡めて、顔を埋めてきた。

「いなくなったら……志貴君がいなくなったら、私、どうしたらいいかわからない……」

 こんなに儚い朱鷺恵さんを見たのは、初めてだった。

「わかってた……志貴君が苦しんでるの……でもね、私、不器用だから、どうやって助けたらいいかわからなかった……」

 それで……あんな事を……

「志貴君の気持ちが離れて行っちゃう、そう思ったら……思ったら……」

 言葉が続かない朱鷺恵さんを、俺は力一杯抱き締めていた。

「……ごめんなさい、朱鷺恵さん」

 悲しませてしまって。
 少しでも、あなたを迷わせる素振りを見せてしまって。

 朱鷺恵さんの嗚咽が収まるまで、俺はじっと抱き締めて
 それから、顔を見せて貰った。

「……また、先に告白されちゃいましたね」

 優しく涙の後を撫でてあげながら、俺は呟く。

「俺も……同じ気持ちです」

 朱鷺恵さんの瞳は、驚きに見開かれていた。
 俺は、もう迷ってなんていなかった。
 吹っ切れていた思いを、朱鷺恵さんに全て伝えていた。

「朱鷺恵さん……あなたを離したくないです……」

 真正面を見つめ、朱鷺恵さんの心に語りかけるようにして俺は告白した。
 それが、俺の本当の想い。
 嘘偽りも飾りもない、ありふれた言葉だけど
 俺の気持ちを表すには、これ以上の言葉など浮かばなかった。
 不器用な俺の、精一杯の気持ち。

 想いは、通じて欲しかった。

「こんな俺でも、付いてきてくれますか……?」

 微笑んで、朱鷺恵さんを見つめると

「……はいっ!」

 朱鷺恵さんは、本当に嬉しそうに、また涙を流して頷いていた。
 俺は……そんな朱鷺恵さんが愛しくて……そっと、唇を重ねた。
 何よりも甘美な、心が融けるようなキスだった。
 一番分かり合えたから、一番思い出に残るキス。

 そっと唇を離した時、俺は静かに朱鷺恵さんに話しかけていた。

「朱鷺恵さんの部屋で……」


 









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