……いつの間に眠ってしまったのだろうか。
気付けば、薄暗い部屋の朝の光と思われる筋が差し込んできていた。
カーテンが明け放れていないという事は、朱鷺恵さんが俺を起こしてくれていないという事を意味した。
……出来るわけ、無いよなぁ。
それでも、一縷の望みではないが、期待だけはしていた。
昨日のはただお互いが欲しかっただけの行動で、気の迷いだったと。
例え嘘でも、そう言ってくれれば、俺は繋ぎ止められたのかも知れない。
「……志貴君」
だというのに
開け放たれていたドアの向こうから、朱鷺恵さんが俺を見つめていた。
「おはよう……」
どこか曇ったような声。
朱鷺恵さんは俺に気持ちを移されてしまったように、陰鬱な表情でそこにいた。
「……」
気付いているのに、何も言えない。
俺はただ、天井を見上げていた。
沈黙がふたりを支配する。
何か、言って下さい。
ゴメンでも。
好きでも。
嫌い……でも。
涙が出そうになるのをぐっと堪え、俺は強く目を瞑っていた。
「志貴君……私ね、今日は帰ってこない……と思うの」
ふっと、朱鷺恵さんが小さく呟いた。
「ど……」
どうして……
そう言う前に、朱鷺恵さんは辛そうな顔をした。
無理に体を起こして、朱鷺恵さんを見つめようとした。
が、俺は気付いてしまっていた。
朱鷺恵さんの右手。
あのリングは、そこにはなかった。
「……指輪……」
俺は、俯きながらそれだけしか言えなかった。
「えっ?」
弾かれたように、朱鷺恵さんが驚いて俺の方を見る。
「どうして……指輪してくれていないんですか?」
どうにかしていた。
今までずっとその右手に光っていた指輪が、その時は付けられていなかったから。
自分との最後の繋がりの証をも、奪い去られたかのような錯覚に捕らわれていた。
「これはね……」
朱鷺恵さんが繕うように慌てて何かを言おうとしていたから
「いいよ! どうせ他の男と会ってくるんでしょ!? 俺だって散々他の子としていたんだから、朱鷺恵さんだって好きにして下さい!!」
そんな事を、言うつもりではなかったのに。
胸の内を吐き出すように、俺は大声で怒鳴りつけていた。
「違うよ……違うよ……志貴君……」
朱鷺恵さんははっとした後、ぽろぽろと涙を零しながら否定する。
「何が違うって言うんですか。俺に愛想を尽かしたのなら、俺には構わないで下さい……」
俺も、泣いていた。
どうして……思いは空回りしてしまうのだろう……!
一度狂った歯車を元に戻すには、もう遅すぎて。
「……私、行かなきゃ。志貴君……予備校にはちゃんと行ってね……」
最後にそう言うと、朱鷺恵さんは戸を閉め、行ってしまった。
がちゃんと、遠くで玄関が閉まる音が聞こえた時
俺は、泣いた。
悲しくて、悔しくて。
そして、自分が情けなくて泣いた。
やっと、素直になれたと思ったのに。
みんなとの触れ合いで、少しずつらしくなっていたと思っていた自分が。
また、朱鷺恵さんに出会う前の頃に、逆戻りしてしまっていた。
跳ね付けるような言葉で、朱鷺恵さんを傷付けて。
「なんで……だよ」
俺は布団を掴み、震える程に握りしめて泣いた。
俺はその日、予備校には行かなかった。
ただ無為に、部屋でその時間を過ごすだけだった。
その内、ふたりの思い出と匂いが残るこの部屋にいる事さえ、段々と辛くなってきたから、部屋を出た。
行く当てもなく町を彷徨うが、そのいずれの場所にも、この短い間で朱鷺恵さんと過ごした思い出が詰まっていた。
……
――志貴君、あとはこれとこれ……
小さな駅前の商店街では、一緒に食事の買い物に来たっけ
――ふふっ、迎えに来ちゃった
帰り道、この交差点でばったりと朱鷺恵さんと出会ったっけ
――ねえ、ちょっと寄っていこう?
夕暮れの公園で、子供みたいにブランコをこいでたっけ
……
……どうしてだよ!
どうして、いなくなってその大切さがわかる!?
俺は、こんなに朱鷺恵さんの事を大事に思っていたのに!
失ってみて、初めてその価値に気付く事がある。
何にも換えられない筈のそれを、俺は自らの身勝手で失ってしまったのだ。
……傷心はより深く、絶望を感じながら、部屋に帰った。
と、リビングの上、あのビデオのパッケージが目に留まる。
……ああ、今日、返さなきゃいけなかったなぁ。
予備校に行くからついでに返してきますって、あの時約束したじゃないか。
なのに、俺はここにいた。
そんな小さな約束も破って、本当に最低なヤツだと思った。
何も考えずに、ビデオをセットする。
そして、スイッチを入れた。
動く気力もなく、ソファーに倒れかかるようにしながら流れる映像をただ網膜に写しているだけ。
だというのに
悲しみが、こみ上げてきた。
思い出が、こみ上げてきた。
愛しさが、こみ上げてきた。
涙が、溢れてきていた。
朱鷺恵さん……
そのトキエ、という響きが好きだったあの頃から、ずっと変わってない思い。
大事な人になった時から、ずっと心に決めていた思い。
ここで確かめ合ってから、絶対に離さないと誓った思い。
その思いは、今はどうして……
もう一度、朱鷺恵さんに逢いたい。
今すぐにでも、朱鷺恵さんの声が聞きたい。
だというのに、朱鷺恵さんの居場所を知らない。
携帯の番号も知らなかった。
自分が情けない。
何にも、朱鷺恵さんの事を大事にしようなんて思ってなかったんじゃないか。
掴めない悔しさが、俺をまた少しずつやつれさせていた。
だけど……
だけど……!
俺は、今となってやっと気付いた事があった。
それを……伝え……たい……のに……
と……き……え……さ……ん……
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