「……」

 この部屋の奥には、志貴さまが……
 私はそう思うと、緊張せずに入られませんでした。
 しかし、私は決めたのです。
 何と言われてしまっても、私はこうしなくてはならないのだと思ってしまったのだから。

 だから……最後にひとつ深呼吸をすると

 コンコン

「志貴さま!」

 私はドアを叩き、その名前を呼びました。

「翡翠……!? 七夜さん!?」

 少しだけ語気が強い私の声に、訝しげにドアを開けた志貴さまは、私が支えている姉さんを見てひどく驚かれました。

「どうしたんだ、七夜さん!?」

 志貴さまが慌てて、体を支えようとします。

「志貴……さん」

 その声を聞いて、姉さんは志貴さまを見上げて、うっすらと微笑みました。

「とりあえず中に……」

 志貴さまの支えもあって、私たちは部屋の中に入りました。
 姉さんの体を志貴さまのベッドに横たえ、私はようやく志貴さまを見ました。

「翡翠……七夜さんは?」

 私は志貴さまの気を落ち着けようと、出来るだけ冷静になって答えます。

「姉さんはずっと外にいて、体が冷え切ってしまってます」

 志貴さまは姉さんの手を握り、そうして頬に自分の手を当てて驚きました。

「何て冷たいんだ……翡翠、とにかく体を暖めないと……」

 志貴さまは部屋の暖房を最大にすると、雪が融けて濡れている姉さんの服をそばにあったタオルで拭き始めました。

 わたしは、その姿をじっと見つめていました。
 今、姉さんの暖める事だけなら私にも出来る。
 でもそれは、「体」を暖める事しかできない。

 壊れ、凍り付いた姉さんの「心」を暖める事は……
 私は一瞬、躊躇します。

 何を考えているのでしょう。
 この期に及んで、私は迷っているのでしょうか。
 なら、このまま姉さんを失って良いのですか?
 自分に詰問します。

 いいえ

 答えは、最初から分かっていました。
 だから……

「志貴さま……」

 私は、志貴さまにお願いします。

「お願いです……姉さんを、抱いてください」

「なっ……!?」

 志貴さまは手を止め、驚愕の表情で私を見ました。
 あまりに唐突の、私の言葉。

「な、何を……」

 それ以上言葉が続かぬ志貴さまに、私は続けました。

「姉さんは、志貴さまを必要としています……だから、姉さんを助けてください」

 私は強く、志貴さまにお願いをします。

「翡翠、何を言って……」

 私は戸惑う志貴さまを睨みつけるようにして

「志貴さま、姉さんがどれだけ志貴さまのことを思っているか、ご存じでしたか?」

 そう、強く言い放っていた。

「ひ、翡翠……」

 志貴さまは、私と姉さんを交互に見るようにして、ただ慌てるばかりでした。

 この人は……なんて愚鈍で、朴念仁なんでしょうか。
 でもそれもこの人だからなのでしょう、と思えてしまいます。

 志貴さまは、それに今まで気付かなかったかのような顔をして、姉さんを見ていました。

「七夜……さん」
「あはっ……ばれちゃいましたね」

 姉さんは笑って、少しだけ体を起こします。まだ神経に熱が伝わっていないように固い動きなので、私が後に回って姉さんを支えました。

「もう、お姉さんの秘密をしゃべっちゃうなんて、いつの間に翡翠ちゃんはこんなにいけない妹になっちゃったのかしら?」

 姉さんの口調は、いつものそれに戻りつつありました。
 それが嬉しくて、私はつい微笑んでしまいます。
 姉さんは、すっかり憑き物の取れたような顔で志貴さまを見ました。
 その笑顔はまぶしく、私が一番嬉しく思う姉さんの顔でした。

「本当はずっと秘密にするつもりだったんですけど……翡翠ちゃんにばらされちゃったら仕方がないですね」

 姉さんは舌を出して、それから真剣な表情でまっすぐに志貴さまを見つめていました。
 その瞳には一点の曇りもなく、迷うものは一切無いことを感じさせました。


「志貴さん、私は……七夜は、志貴さんを愛しています」


 姉さんの告白。
 私たちは、ただ黙っているしかありません。

「七夜として生きる事になっても、私は忘れられない何かがあるようでした。志貴さまを見ると、暖かく、胸がどきどきするような気持ちになりました」

 目を閉じて胸に手を当てる姉さん。そして、もう一度目を開けて志貴さまを見ます。

「……きっと、私の前の記憶も、志貴さんの事を愛していたのですね」

 笑顔で姉さんは言うが、酷く辛いその一言。
 「琥珀」としての記憶を失ったはずなのに、姉さんは志貴さまを愛する心だけは忘れていなかったと。

「……分かってます。志貴さんは翡翠ちゃんの事を愛している事……」

 少し寂しそうな表情は、やがて決心を秘めたものに代わり

「だから、一度のお情けでも構いません。私を……七夜を、抱いてください」

 姉さんは、きっぱりとそう言いました。

「……」

 志貴さまは、その言葉を受けても尚、動けないでいました。
 俯いたまま、表情を伺う事は出来ません。
 分かります。

 突然に愛するもの以外を抱けと言われ
 そのものの告白を受け
 一度の情けで構わないと言われ

 そうして、普通でいられるはずがありません。

 でも、志貴さまなら……
 私は、信じました。

 志貴さまはゆっくりと頭を上げると、悲しそうな目で首を横に振りました。

「……だめだ、そんな事は出来ない」
「え……」
「……!」

 私は驚き、声を上げる事も出来ませんでした。
 志貴さまは、ここまで墜ちた人だったのか。
 一瞬、私でさえもそう思ってしまいました。

「志貴さま!」

 私は、志貴さまをにらみつけ、怒鳴っていました。

「……違う、そうじゃない」

 志貴さまは尚も首を振ります。

「何が違うというのですか!?」

 私は一瞬、志貴さまにつかみかかりそうになりました。
 が、姉さんが……その力を失い倒れそうになるのに、支えを解く事が出来ません。
 今倒れたらもう二度と起きあがれないのではないか、そう思えてしまって、私は視線だけで志貴さまを射抜きました。

 志貴さまは、とても悲しそうな目をしていました。
 其処に非情な色などは全く見えませんでした。
 そうして、私たちを交互に見るのです。

「志貴……さま」

 私は声を失い、そうして志貴さまを見ます。

「……七夜さん、そんな……悲しい事を言わないでください……」

 志貴さまは姉さんに呼びかけ、そして私を見ました。

「翡翠……俺は……一時の情け感情で七夜さんを抱く事なんて出来ない……」

 その言葉に、初めて志貴さまの言葉の意味が分かりました。

「あ……」


 私は、はっと思い出しました。
 私を初めて愛してくださった、あの時の事。


「……俺は最低な男だ。七夜さんにこんな事を言われて、今こうして七夜さんの事を抱きたいと思っている……」

 志貴さまは懺悔をするように語り出す。

「分かっていた。七夜さんが壊れそうなのを。しかもそれは、俺が悪いのだと……」

 以外だった。
 志貴さまがそれを気付いていたなんて
 でも、それほどに姉さんが壊れかけていたという事だったのだろう。

「だから、助けるためだとか、そう思いたくない。抱くならば純粋に七夜さんを愛したいと思っている自分がいる……」

 悔しそうに思いを吐き出し、そして最後に私を見つめました。

「それなのに……翡翠は悲しまないか? 目の前で愛する人間を姉さんに取られて、悲しんだりしないか不安なんだ……」

 そこまで言うと、志貴さまは自分の握り拳を見つめた。
 それは自分に対する怒りなのか、僅かに震えていた。

「……志貴さま」

 私は、優しく志貴さまに話しかけました。

「私は、悲しくなんかありません。志貴さまに私たちがふたりとも愛して貰えて、嬉しく思います」
「翡翠……」
「私たちは……ふたりでひとりとも言える存在です。どちらが欠けてしまっても、私たちは生きていけません」

 その言葉に偽りはない。
 姉さんに気付かされて、そう思ったのだから。

「だから、志貴さまは私だけの志貴さまではありません」

 私にもう迷いはありません。

「志貴さま、私を愛するように、姉さんを愛してください」

 志貴さまだけを見つめ、そうして、姉さんをぎゅっと抱きしめた。

「翡翠ちゃん……」

 姉さんは、私を見ていた。
 その瞳には、涙。

「姉さん」

 だから、私は一番の笑顔で頷くと、志貴さまを見た。

「志貴さま。姉さんを、お願いします」