あの日から、姉さんは傍目にもおかしくなっていきました。
 いつも遠くを見ているようで、物思いに浸っては深い溜息をつくようになりました。
 それは掃除中でも、洗濯中でも。
 そして、特に志貴さまと一緒にいる機会のあった後。
 志貴さまがそこにいる間はいつものように明るく、そんな素振りを微塵も見せないようにしていましたが、志貴さまがいなくなると姉さんは俯き、悲しそうな目をするのです。
 そうして、決まったようにある仕草を見せるのでした。

 それはとても艶やかで、でも圧倒的に寂しくて。
 その仕草の本意を解せませんが、何かを思い出すように、それにしがみついているように見えてしまいました。

 誰の目にも、無理をしているようにしか見えません。
 こころの不安定さは日に日に色濃くなり、次第に鬱とも言えるような症状を見せていました。
 秋葉さまも心配なさり宗玄先生に看て貰うように勧めましたが、姉さんは受け入れません。
 私達も無理強いが出来ず、そうして屋敷に重い空気が混じり始めていた頃でした。

「……雪?」

 各部屋の掃除を終え、私が廊下を歩いている時でした。
 ふと窓の外に目をやると、そこには白く落ちるものが見えました。
 最近、季節の変わり目だというのにどうも天気がはっきりしません。今朝も朝からこの時期には考えられぬほど寒く、どんよりと低く黒い雲が空を覆っていました。

 それはまるで、姉さんのこころを表しているようでした。

 天気は不安になっていましたが、まさか雪が降り出すとは思ってもいませんでした。
 しかし、見慣れぬ雪を見て私は薄情なものです。
 素直に、ああ綺麗だなぁと思って眺めてしまいます。

「……」

 しかし、私はすぐに次にやるべき事を思い出しました。と秋葉さまの部屋の荷物を整理する予定でした。
 私はそのお部屋に向かいます。すると……

「……」

 姉さんが、その部屋に続く廊下から、窓の外を眺めていました。
 その姿に、私は絶句してしまいました。

 それは……
 私が……
 姉さんが……

 幼い頃、ここから志貴さまたちを眺めていたその情景に、あまりに酷似していたからです。

「……あ」

 私の気配を感じたか、姉さんが雪に魅入られたかのような瞳で、こちらを見ます。
 その瞳には光はなく、濁った黄土色の虹彩が私を縛り付けるようでした。

「姉さん……」

 私は出来るだけ普通に、姉さんに呼びかけました。

「翡翠ちゃん……」

 姉さんはふっと悲しく微笑むと、窓の外をもう一度見つめました。

「雪……綺麗だね」
「……はい」

 私は、姉さんの抑揚のない声にただ同意するしかありません。
 それっきり姉さんは何も言いません。
 ただ、舞い落ちる雪を眺め、その厚い黒雲を眺め、そして……わたしたちが遊んだ眼下の庭を眺めるるばかり。

 その横顔は、あまりにも寂しすぎます。
 そんな姉さんに、私はどんな言葉をかけられましょうか。

「……」

 ただ無言に、私は姉さんの後ろを通り過ぎるしかありませんでした。

「ひゃー、凄い降り方になってきたなぁ」

 玄関を開けるなり、志貴さまは肩に付いた雪を払いました。
 午後には雪は大粒になり、既に地面にはうっすらと雪化粧を施すまでになっていました。
 そんな中走って帰宅したであろう志貴さまは、苦笑いしながら学生服を脱ぎます。

「志貴さま、お体が冷えるとよくありません。宜しければお風呂に入って暖まった方が」

 こうなるであろうと、私は部屋の暖房とお風呂の準備をしておきました。

「ああ、そうするよ。走ったから汗もかいて、このままじゃ確実に風邪引いちゃうよ」

 志貴さまはそう言って私に鞄を預け、浴室に向かいました。

 志貴さまを見送ってから、私は志貴さまの部屋に向かいます。
 部屋の温度は少し高く、お風呂上がりの志貴さまには多少熱く感じるかも知れません。
 空調の温度を落とし、ふと窓の外を見ました。

「あ……」

 遠くで、姉さんが庭を歩いていました。
 何をしているのでしょうか。
 何かを探しているように、何かに誘われたように、奥に向かいます。
 しかし、私はその時それほど重要でないと思ったのか、それ以上考える事やめました。
 姉さんの行動一つ一つに気を遣いすぎると、かえってそれが姉さんに良くないと思っていたからです。

 しかし、それが私の甘いところでした。

「翡翠」

 秋葉さまが、不安そうに私に呼びかけました。

「はい」
「七夜は……どうしたの?」

 夕食を過ぎ、食後のお茶の時間を過ぎても姉さんは現れませんでした。
 幸い夕食の支度は出来上がっており、志貴さまが暖めて食卓に並べましたが、今まで無かった事に志貴さまも秋葉さまも不安を隠し得ない様子でした。

「分かりません……」

 私も、首を振る事しかできません。
 姉さんの部屋をノックしても返事がありませんでした。
 出たくないようにしているようだったので、私はそれ以上何もせず、部屋を後にしました。

「恐らく、体調を崩されたかと……」

 私のそれは推測ですが、秋葉さまを納得させるに十分な効力を持っていたようでした。

「そうね……ここの所元気もなかったし、今日の寒さで疲れが一気に出ちゃったのかしら……」

 秋葉さまは志貴さまに同意を求めるように視線を移しますが、志貴さまは曖昧に頷く事しかできません。

「ああ……そうかもな」

 不安を皆が感じながら、重苦しい雰囲気が包みました。

「……今日は早く寝るわ。雪の夜には何も出来ないし、明日は生徒会の仕事があるから」

 この空気を断ち切るように秋葉さまは告げ、ゆっくりと立ち上がりました。

「それじゃ……今日はこれくらいにしておくか」

 いつもよりだいぶ早い時間ですが、志貴さまもそう言って私に目配せをしました。

「分かりました。では後は私が片づけますのでお部屋にお戻り下さい」

 普段は姉さんの仕事を私が引き受け、二人が部屋を後にしてから、カップを集め台所に向かいました。
 食器を洗いながら、磨りガラスの向こうの景色を眺めます。

 モザイク模様の、白。

 雪化粧は色濃く、だいぶ積もっているようでした。

 それを眺めながら、こころは姉さんに向けられます。
 ……見舞いに、行かなくては。

 情けなくも食事の支度が出来ない自分は、姉さんがいないと遠野家の食卓を預かる事も出来ません。
 今も、洗った食器を乾燥機に入れたはいいが、乾いた後は何処にしまえばいいものか悩んでしまっていました。
 結局姉さんがいないと、どうしようもないところがあります。

 濡れた手を拭き使わぬ部屋の電気を消しながら、乾いた音を立てる乾燥機を残して、私は台所を後にしました。

 コンコン

 何度目かのノックをします。

「姉さん」

 何度目かの呼びかけをします。
 しかし、姉さんは出てくるどころか、返事もしてくれません。

「姉さん、大丈夫ですか。体調が良くないなら、お医者さまを呼びますが……」

 呼べど、返事は一向にない。
 段々と私も不安になっていきました。

「姉さん」

 こんな事をするのは無粋だと思いながら、私はドアノブを回します。

「え……」

 カチャ……

 鍵がかかっていると思われたそれは、私の手の動きに従って容易に開きました。

 そして……

「姉……さん?」

 そこには、誰もいませんでした。
 明かりもなく空調も切られ、まるで外にいるかのような寒さ。
 そんな部屋の入り口、私は立ちすくんでしまいました。

 姉さん……何処に……?

 私は暗闇に視界を奪われ、そのせいかぐるぐると回りそうな頭の中で考えました。
 今日の朝から見た、姉さんの姿を次々と思い出します。
 志貴さまを送り出してからの、辛そうな笑顔。
 食事の片づけの途中、お皿を落としてしまった時の悲しそうな顔。

 雪を眺めていた恐ろしいまでの寂しい姿。

 そして、ふと見た、庭を歩く姉さんの姿……

「……!」

 そこまでたどった瞬間、私は胸を突き上げるような衝撃に襲われました。

 庭を……歩いて……!

「姉さん!」

 私は、走り出していました。

 廊下を抜け、玄関を飛び出して庭に向かいます。
 しかし、地面には既に厚く積もった雪があり、私の足を進ませまいとします。
 何度か転びそうになりますが、その度に私は何とか体制を整え歩きました。

 向かう先は姉さんを最後に見た庭……更にその奥。
 私が進むその道は足跡も無く、そこには姉さんなどいないかも知れない。
 しかし、私は進みました。

 そして……

「……姉、さん……」

 やっと、見つけました。
 真っ白に雪を称えた木々に囲まれた、小さな広場。
 姉さんは、右手を空にかざしながら


 儚く 舞い散る雪を 見ていた……