トントン


「失礼します」

 私はノックをしてドアを開けると、深々とお辞儀をしてから部屋に入りました。

「翡翠……」

 ドアを閉めると声がして、それから衣擦れの音と歩く音。ベッドから身を起こして、こちらに歩いてきているようでした。しかし私は俯き目を伏せ、その姿を伺う事が出来ませんでした。

「遅かったね」

 待たせていたにもかかわらず、明るい声。それは咎めるようではなく、何でもないような声なのですが、負い目のある私にはとても辛く聞こえてしまいます。

「はい……お話が長引きまして……」

 私は恐る恐る、というように答えてしまう。

「気にしないよ、そんな事……ほら、まだつもる話がいっぱいあるだろうし、翡翠は七夜さんにとって大事なお姉さんだから……」

「はい……」

 私は答えるものの、目を合わせられない。
 合わせたら、私はどうなってしまうのでしょうか。
 その先にある瞳に射抜かれて、ここに立っていられなくなるかも知れません。
 この場に座り込んでしまうか、それとも逃げ出してしまうか。
 緊張は、私の中から注意力を奪います。

「翡翠……」

 不意に気配が強まり、肩に手を置かれてビクッとしてしまいました。
 咄嗟に離れたいがために体を捻ろうとする衝動を、自分の中で必死に抑えました。

 だって……私は決めたのですから。
 何と言われてしまっても、私はこうなりたいのだと思ってしまったのだから。

 だから私は、ありったけの勇気で顔を上げました。
 しかし……私は瞳を合わせる前に

「震えて……る?」

 その優しい声で、自分の体の変化に気が付かされました。

「え……?」

 なんてこと
 今まで一度もそんなことになったことがなかったのに、どうして……?
 肩が、膝が、体が。
 ぶるぶると震えだして、止まらないのです。

「あ……? あっ……」

 抑えようにも、体から湧き出るようなそれを止める方法は知るわけもありません。
 私は自分の体を抱くようにして、瞳を閉じます。しかし体を渦巻く闇は私から正気を次々と奪っていきます。

 助けて……助けて……!

 心の中で叫びますが、それは闇に吸い込まれていくだけで、余計に私は墜ちていきそうになります。

「もしかして……七夜さんに何か言われた?」

 肩から手を離し、驚いたように私に問う。
 しかし、私は何とかゆっくりと首を振ると

「そうではありません……少し、緊張してるのです」

 伏せがちの瞳で、そう答えた。

 なぜ、どうして……

 こんなにも望んでいだ時が訪れたというのに、どうして恐怖しているのでしょうか?
 ……わかりません。
 それは、突発的に思い出された拒絶反応なのでしょうか?
 そんな……わけが……ありません
 私は、無くしたはずなのに……

「大丈夫です……気にせず、私を愛してください」

 私は自分の震える体を見つめたままそう言うが、その言葉は全く力を失っていました。

 だけど、構わない。
 こうされる事で、私は「私」でいられるのだから……

「わかった……」

 しばらくの沈黙の後、決心したような声が目の前から聞こえました。

「翡翠の嫌がる事は出来ない……今日は、お休み」

 なのに……

「え……?」

 想像だにしない言葉が、私の体を貫きました。

 そして
 震える私の顎に手を添えられて、私は僅かに驚いた様子で見上げてしまいました。
 私が目の前の姿を理解しようとする前に


 唇に、軽く触れるだけの感触。


 一瞬だけふれあい、そうして離れていく唇。

「あ……」

 それに気付いた時、慌てて唇を隠すように手を当ててしまい、そうして……
 唇と指先から伝わる、その感触。

 なんて……それは……

 その瞬間、私の中で何かが壊れてしまいました。
 がらがらと、必死に積み重ねたものが音を立てて崩れるようにして。
 ガシャンと、心のガラスが全て粉々に砕け散るようにして。

 私は、ただ目の前のその人を誰だか分からないように見つめたまま、触れられたその唇に指をなぞらせ、立ちすくんでしまいました。
 脳幹が痺れて、何にも考える事が出来ませんでした。

「だから今日は……これで十分だよ……」

 私が放心する目の前で、にっこりとするその笑顔が……見えません。

「……志貴、さま」

 私はバラバラになりかけたこころを何とか引き留めて、声を出しました。

「……ん?」

 ようやく。
 遅れたように涙が一筋、私の頬を伝わって落ちてゆきます。
 それを感じた瞬間。

「……志貴さまは、本当にお優しいのですね……」

 私は、にっこりと微笑みました。
 それは……理性の切れかけた笑顔。

 ああ……
 壊れてゆく

「どうして……私に……こんなにも優しくしてくれるのですか……」

 そう言うと、それ以上は涙を見せたくないというように振り返り、ゆっくりと部屋を出ていきました。
 そうして、ドアを閉めた瞬間。私は、がくりとその場に崩れ落ちていました。

「ああ……あ……は……」

 ぎゅっと力を込めて手を握り、どうにか最後の一線を越えないように耐えます。

 もう、何が何だか分かりません。
 わたし、どうしちゃったんでしょうか。
 ワタシは一体、誰なんでしょうか。

 わかりません。

「翡翠……」

 翌朝。

 私は志貴さまを起こした後、いつものように窓を開けていると、志貴さまが話しかけてきた。

「何でしょうか」

 私は、出来るだけ平静を装います。

「昨日の事だけど……」

 志貴さまの言葉に、私は心が痛くなりました。

「申し訳ございませんでした……」

 深々と頭を下げ、自分の非を認めます。
 そう、あれは私がいけないのだった……

「いや、いいんだ。それより、昨日はよく眠れたかい?」

 志貴さまはそんな私を咎めるでもなく、あっさりとそう続けました。

「え……」

 私は、まったく心を読まれてしまったように硬直してしまった。

「はい……」

 これは、志貴さまなりの私に対する意地悪なのか。そう思えてしまうが、志貴さまはそんな人ではない。これは志貴さまの本心から出た言葉に違いありません。

「なら、よかった。誰だってこんな時があるさ……」

 私を慰めるように、志貴さまは少し寂しそうに言った。
 その瞳が悲しくて、私はいたたまれない気持ちになった。

「では、今夜改めて……」

 私が恥ずかしながらもそう告げようとした時

「いや、そんなに焦る事はないよ。ふたりが望む時に、そうすればいい……」

 志貴さまは優しく、そう仰ってくれました。

 なんて、優しいお方なんでしょうか。
 私は、この人に仕えられる事を誇りに、そして幸せに思いました。

「分かりました。志貴さまがそう仰るのなら……」

 私は嬉しさがこみ上げてくるのを悟られぬよう、平静を装って自分の仕事をこなした。

「では、食堂にお越し下さい。食事の用意をお願いしておきます」

 私が何度言ったか忘れるほどのそれを伝えると

「ああ、分かったよ」

 志貴さまもいつものように、返してくださいました。

「それでは……」

 私はお辞儀をすると、志貴さまの部屋を後にしました。

 ……ただ純粋に、嬉しい。
 ドアを見つめながら、私はそう思いました。
 志貴さまの優しさ、それに包まれたような心地。
 それだけで、今日という日がいつにも楽しく迎えられそうです。

「翡翠……ちゃん……」

 気付けば、姉さんが少し離れたところで私を見ていました。

「あ……」

 恥ずかしさで、頬を染めてしまいます。
 が……

「姉……さん……?」

 その色を失いかけた瞳に、私は言葉を無くしてしまうばかりでした。