「……」

 私は無言のまま、いつものようにお部屋の片づけをします。自分の部屋はもとより、姉さんの部屋、秋葉さまの部屋、そして……志貴さまの部屋。
 志貴さまの部屋の前に立つと、内側から

 カチャ……

 ドアが開かれます。でも、それは驚くような事ではありません。

「あ……」

 そこには、当たり前のようですが姉さんがいました。

「翡翠ちゃん……」

 姉さんは、一瞬寂しそうな顔をします。でも

「あ、お部屋の掃除ね。お願いね」

 すぐにいつものような笑顔に戻ると、玄関の方に駆けていきました。

「……」

 そんな姉さんの後ろ姿を見ると、何だか辛くなってしまいます。

 この間、姉さんに少しずつ変化が現れてきました。
 「琥珀」としての記憶を失い、「七夜」として生きるようになってから数ヶ月。始めは辿々しかった屋敷の仕事も次第に慣れ、今はもう前のように殆どの仕事がこなせるようになりました。
 そんな姉さんを、私が、秋葉さまが、そして何より志貴さまが受け入れる事で、姉さんは段々と明るく笑うようになってきてくれました。

 それが最近、ふと時折姉さんは寂しそうな笑顔をするのです。4人で居る時も、気が付くと一人、遠くを見てしまっているような気がします。
 それは、もしかしたら私達の気遣いに心を苦しませているのかも知れません。気遣われてばかりで自分は何も出来ない、そんな気持ちに苛まれているのかも知れません。

 ……いえ、そうでないのは分かっています。
 でも、私は……私だから、そう思いたいだけなのです。

 私は志貴さまの部屋に入ると、まずはベッドからお掃除をします。シーツを剥ぎ、カバーを取って洗濯をするためです。
 ホコリが舞うのを嫌い、私は窓を開けようと思いました。

 ……窓?

 私は、その状況に疑問を抱きました。気付けば、窓は締め切られ、カーテンは引かれていて、志貴さまの部屋は仄かに暗くなっていました。
 私がこの部屋を訪れれば、そこは志貴さまの心地よい起床の為に、私が朝ご用意した状態……窓は開き、段々と春めいてきた暖かい風を取り込み、カーテンは開かれ、眩しい程の朝日を部屋に取り入れている……そんな筈でした。
 それが最近、時々私が訪れる時にはこうなっているのです。そう、それはまるで、志貴さまが未だに眠っているとでも錯覚できるような状態です。

 始めは、志貴さまがそうしているのかと思いました。でも、そうするとカーテンまで閉める理由が分かりません。
 そんな折、部屋に入ると姉さんが窓を閉めているのを見かけました。姉さんは「防犯の為ですよ」と言って、カーテンも閉めるのは部屋の中の状況が見えて、人がいないと思われたらいけないから、と説明をしました。

 はじめは、私もそれに納得しました。しかし、よく考えればこの屋敷は殆どの部屋が空室で、今は殆ど人がいない事など知れ渡っている筈。それに、昼間からこんな目立つ場所を狙おうとする人などいる訳がありません。
 結局、それが何故なのかを理解できないでいました。

 私はカーテンを開け、更に窓も開けます。と同時に心地よい光と風が、部屋の中に入ってきました。
 季節はそろそろ春、と言っても差し支えはないでしょう。屋敷の桜も段々と蕾を膨らませ、もうすぐ開花するのではないかと思える程です。そんな心地よい空気を感じると、心が和みます。冬も終わりを迎え、いつの間にか季節に馴染んでしまった心をも、ゆっくりと暖められていくような気がしてしまうのです。
 そんな思いを抱き、私は自然に微笑みながら掃除を始めようとした時でした。

 ……

 志貴さまのベッド、シーツの上。少しくしゃくしゃになった皺のある布地の上に、僅かに色の違うところ。きっと窓を開けなければ、その僅かな光の差違に気が付かないでしょう。

「……また」

 私はそのシミに手を触れ、次に掌全体でシーツをなぞると、そこにはまだ温もりがあるのに気付き、理解していました。


 ……姉さん


 そこには志貴さまの香りに混ざり、僅かばかりながら姉さんの香りを感じずにはいられませんでした。
 姉さんは部屋を暗くし、志貴さまを思いながらこのベッドに寄りかかり、そして……
 それを認める度に、私の中に複雑な思いが生まれてきてしまいます。


 それは、困惑と……僅かばかりの自責。


 姉さんが笑顔を無くしている原因は、痛い程分かっています。
 しかし、私はそれにどう答えるべきなのか、全く分からないのです。
 苦しませているのは、志貴さまと、私の筈なのに……

 志貴さまは、それを分かっていないような気がします。あの方はそういう人だ、この屋敷の中の誰もが理解しているはずです。
 だから、私が何とかしてあげなくては……そう思うのですが、どうする事も出来ません。


 それはつまり、志貴さまを……


 それを許さない自分は、なんて最低な妹なのだろう、そう思ってしまいます。しかし、私は不安でした。例え愛を誓ってくれた志貴さまでも、私の元を離れてしまうのではないか……と。
 何て身勝手な自分、そう罵られたとしても私は反論する事が出来ません。かといって、姉さんをきつく責めるような事を、妹の私が出来るわけがありましょうか。

「……」

 今はただ、流砂に少しずつ体を飲み込まれていくように。
 私はただ何もせず、じっとしている事しかできないのでした……

 

 

 

 

 

 私はいつものように、この広い遠野家の庭を掃除します。私の出来る事はこうして、遠野家のお屋敷がいつまでも綺麗なままでいる為にお仕えする事。
 そう、それは、あの人の為に……

「あ……」

 ふと遠くに映るお屋敷の玄関に目をやると、いつの間にか学校から下校した志貴さんがそこにいました。そうして、扉のそばには……

「翡翠ちゃん……」

 私は、その瞬間体が縛られたように動けなくなっていました。
 ふたりが仲良さそうにお話をして、そうして屋敷の中に消えていくのを、ただ見守るしかありませんでした。

 そして……ふっと一瞬だけ、志貴さんの部屋に続く廊下に二人の姿を認めると、私はその場に竹箒を落とし、ふらつくように屋敷へと歩を進めていました……