「えええっ!?」
 流石の琥珀さんも、俺の突然の申し出には驚いたようだ。
「ちょ、ちょっと志貴さん、何を?」
 慌て、赤くなりながら琥珀さんがぱたぱたと手を顔の前で振る。
「いや、折角だから、男湯で良かったら一緒に入ろうよ」
 俺は笑ったままもう一度繰り返す。
「そんな……だって……」
 琥珀さんはもじもじとしながら困惑している。そりゃそうだ、女性が男湯に入るなんて普通はあり得ないから。
 そう、「普通」なら……
 でも、俺には不思議な確信があった。
「大丈夫、こんな時間に他に入ってる人なんていないって」
「それはそうかも知れませんけど、もし、って事があるじゃないですか……」
 琥珀さんは傾いてきているようだ。最初から混浴であれば問題なく何か対策を講じてきてはあっただろうが、恐らくはタブー的領域に入り込む事に抵抗を感じているのと、それを誰かに見られる事に不安を感じているのだろう。
 だから、俺はその両方を取り去ってやる事にした。

「多分、いや絶対。今日の男性客は俺一人だよ」
「えっ?」
 琥珀さんがそんな、というような目をする。
「どうして、そんな事が分かるんですか?」
 俺の自信気な発言も、琥珀さんにはまだ信じられないようだ。
「夕食、思い出してよ」
 俺はわざともったいぶって話す。
「あの時、俺の他に男の人いた?」
 俺は、ニヤリとする。
 
 そうだった。食堂に行った時、そこには女性しかいなかった。
 食堂はかなり広く、宿の規模から考えれば恐らく朝食などで一同に介する場所なのだろう。多分、流石に平日お客が少ない時には部屋に食事を運ぶには人件費がかかりすぎるから、この食堂を夕食にも使った、というところだと推測した。
 ならば、折角の宿の食事をフイにしてまで飲み明かす男連中がいると思われるか……となると、いるはずがない。万が一いたとしても、既に酔いつぶれてるか、まだ飲んでいるか……どのみち、酒好きが酔っている時に風呂に入ろう、などと言う自殺行為に及ぶとは思えない。

「そういえば……」
 琥珀さんもそれを思いだしたようで、何となく気配が軟化する。それでもまだ不安そうだが。
「で、たった一人の男の俺が「いい」って言うんだから、問題ないでしょ?」
 俺はそう言って「ね?」という同意を求める視線を送る。それでも琥珀さんは
「……でも、私の体なんて見飽きてるんじゃないですか?それをわざわざ……」
 と、迷っているようだ。
 だから俺は、童心に返ったつもりで
「こっそり男湯に一緒に入る。こんな秘密っぽくてちょっと不良な思い出、ってのもいいんじゃない?」
 と、琥珀さんの浴衣の袖を引っ張ってお願いした。
 「思い出」という言葉に反応したか、琥珀さんは暫く悩んでいたようだったが……ふと顔を上げると、僅かに頬を赤らめ仕方ないですね〜という顔をしながら
「そこまで志貴さんが望むなら……入りましょうか」
 と遂に言ってくれた。
「本当!?」
 俺は真っ暗のロビーで「やったー」と小躍りをしてしまう。琥珀さんはくすくす笑いながら
「本当、志貴さんには敵いませんね」
 と言った。
「じゃ、そうと決まれば行きましょう。さぁ」
 と、俺は琥珀さんを引っ張って浴場に急いだ。
「志貴さん、急いでもお風呂は逃げませんよ」
「でも、時間は逃げて行くからね。それになるべく一緒の時間が多い方がいいから」
「ふふふ、のぼせても知りませんよ?」
 琥珀さんは笑いながら俺に手を引かれ、自分も楽しそうにしていた。

「念のため……と」
 脱衣場のロッカーから「清掃中」とかかれた看板を出し、それを入り口に置いて一呼吸。
「へへ〜」
 俺はニヤニヤ笑いで琥珀さんを見る。琥珀さんも
「もうっ、どうしてこういう事には悪知恵が働くんですかね?」
 と、子供に呆れるようにしながらも笑い返してくれる。

 さぁ、これで心配する物はない、思いっきり楽しめる。そう思うと俺は嬉しくなって、早々と浴衣の帯を外す。そのまま、中に着ていたTシャツとトランクスもポンポンと脱ぎ去り、一応前だけはタオルで隠す。

「さてと……」
 俺は準備を追えると、隣を見る。

 琥珀さんはゆっくりと帯を取り、その白い肩を露わにしていた。
 正直、艶めかしくて、ゴクリとツバを飲み込んでしまう。
 衣服の際からちらりと覗く普段隠れた肌……そう言うところに非常に興味を抱くのは、男性としては当然だと思う。それ以上にその少し哀を含んで俯き加減の琥珀さんは美しく、正直そっと抱きしめてやりたくなる。
 浴衣の下に、普段付けてないブラの紐が覗く。そっか、今日は洋服だったしこの格好じゃ何も付けないのも無防備すぎるか、とか考えて何だか自然と顔がにやけてしまう。
 琥珀さんが、浴衣を床にはらりと落とす。その仕草が、破滅的に心臓をドキドキさせる。

 と、そんな俺の視線に気付いたか、琥珀さんが
「あは、志貴さんのえっち。女性の着替えを堂々と覗くなんていけませんよ〜」
 と、恥ずかしさで赤くなり胸を隠しながら俺を見る。
「あ……ごめん」
 そう言われて、ちょっと悔しい。本当はじーっとでも見ていたかったけど、これじゃそれは許されそうにない。けど何とか……と思ったが、琥珀さんに
「志貴さん、お寒いでしょうからお先に入っていてください。女性は色々と準備がありますので」
 そう言われてはイヤとは言えない。
「分かりました……」
 俺は残念がりながら、風呂場へ続くドアに向かった。余程悔しいのがわかったのか
「志貴さん、フェチですね〜」
 と、笑われてしまった。
「ふん、どうせおれはフェチですよ〜だ」
 男はみんなそうさ、と思いながら俺は浴場に入った。

「はぁぁ……」
 なんだかんだで温泉は気持ちいい。でも1つ願いが叶えられなくてため息が出てしまう。
「ふふふ。志貴さん、お風呂に入ってるのに気の抜けた声ですねえ」
 と、後ろから声がして振り向く。ちょっときょろきょろとしながら、琥珀さんはドアを閉めていた。
 その姿に、ドキッとする。
 体はしっかりとバスタオルに守られていて残念だったが、それよりも目を引いたのは……頭だった。髪が湯船につからないように、アップにしてまとめてある。
 普段下ろした髪型しか知らない俺には、それは琥珀さんが変身したように映った。
 なんだか、物凄く大人っぽい。さっきからあれこれ拗ねている俺が、めちゃめちゃ子供みたいだ。
 そんな琥珀さんが、湯煙に霞んで美しい。むしろ、妖しい。惑わされているような気分に、一気に心拍数が上がってしまった。
「そりゃ、琥珀さんが悪いんだからね」
 俺はドキドキを抑え、それでも子供のように愚痴るが
「あは、人のせいにするなんていけませんよ」
 と軽くたしなめられてしまう。
「それにしても、やはり女性用とは内装が違いますね」
 琥珀さんは、周りを見回してそう呟く。
「女湯は、どうなの?」
 俺は訪ねる。
「そうですね、どちらかといえばこんなにごつごつして無くて……滑らかな岩が多いお風呂でしたね」
 琥珀さんが湯船を造る岩を指さして言う。成る程、そんなところも適当じゃないなんて凝った造りだなぁ。

「では……失礼します」
 と、琥珀さんは軽く湯を浴びると、湯船に入ってきた。
「あー、琥珀さんダメだよ。湯船にタオルを沈めちゃ」
 俺は脱いでくれるものだと思ってただけに残念に思い、そう非難の目を向けながら琥珀さんをジトと見る。
「だって、恥ずかしいじゃないですか」
 と琥珀さんは笑って誤魔化そうとする。
「俺だって、ほらそこにタオルを置いてるのに」
 と、湯船の縁に置いたそれを指さして、琥珀さんに詰め寄るが
「なら、上がっちゃいますよ」
 と、いきなり切り札を出されてしまった。
「……ちぇ」
 上がられてはたまらない、俺は渋々承知する事にした。

 ざぁぁ、と湯が沸き出し、そして溢れ出す音。俺達はゆっくりと湯船に肩までつかる。
 一緒に入れたから、まぁヨシとするか……もちろん、それだけでも十分だったが、俺はまだ野望があった。
「気持ちいいですね〜。これだけ広い浴槽を2人占めできるなんて」
 と、琥珀さんが湯をすくいながら呟く。
「やっぱり女湯は混んでた?」
 俺が訪ねると
「まぁ、時間が時間でしたから。回りはみんなおばさまばかりで、色々聞かれちゃいましたよ」
 と、琥珀さんが苦笑する。
「誰と来たの?とか志貴さんはどんな人?とか、大変でしたからねー」
 と、俺を見る。
「……」
 俺は少し苦笑いする。おばちゃん連中は噂好きだからな、明日食堂ではなるべく目を会わさないようにしておこう、そう思った。
「あ〜」
 伸びをするようにして、天井を見上げる。凸凹の天井面に水滴が付いている。それを見てると、なんだか心がふっと落ち着いてくる。その数を数えながら、のんびりとリラックスして浸かっていると、琥珀さんも同じように見上げていた。

 そうして、ふと数え飽きた頃に琥珀さんの方をちらりと見る。
 琥珀さんは、つんと顎を上に向けている。なんだか、それが唇を差し出しているような感じだ。そして、視線を僅かにずらすと、普段は髪に隠されているうなじの部分が露わにされているのに気付いた。
 その、首筋の美しいラインにドキリとする。僅かにまとめ損ねた後れ毛が、いっそういやらしさを引き立たせていた。
 思わず、その姿を凝視してしまう。
 
 その唇に、触れたい
 その首筋に、這わせたい

 そんな衝動が早急に俺を支配していき、俺は自然に体を寄せていた。

 ふと、それに気付いた琥珀さんが、こちらを向く。
「どうしました?」
 琥珀さんは、俺がどんな気なのか知らない風だった。それは本当かどうか分からないが。
 純真な目で見られると、俺も流石に気後れしてしまう。
「いや……体でも洗おうかなと思って」
 と、繕って誤魔化すと
「それじゃ、折角ですからお背中お流ししますね。それくらいはしてあげないと、志貴さんが拗ねちゃいますからね」
 琥珀さんは冗談交じりにそう言ってくる。でも、仮に頼んでそれもしてくれなかったら間違いなく俺は拗ねてただろうが。
「じゃ、お言葉に甘えちゃいますね」
 と、俺はザバッと立ち上がる。と
「きゃっ!」
 琥珀さんが声を跳ねる。
「?……あ……」
 自分の足下を見やり……しまったと思った時には遅かった。
 さっきからの衝動は、早々収まる物でもなく、俺は自分のそれを……立たせたままだった。琥珀さんがタオルを付けていた事で、自分は逆に付けてない事をすっかりと忘れていた。
「はは……」
 と笑ってごまかし、急いでタオルを巻き付け隠すとシャワーの方に向かった。途中、ちょっと滑りそうになったら
「ふふふ……」
 と琥珀さんの笑い声が後ろから聞こえた。俺はさっきのと、今のとを見られて顔を真っ赤にしながら、お湯を流し、体にごしごしとタオルを押し当てた。

 コトン、と俺の後ろにイスが置かれ、そこに琥珀さんが座った。
「それじゃ、志貴さん」
「はい、お願いします」
 俺はその石鹸の付いたタオルを渡すと、琥珀さんは優しく俺の背中を洗ってくれる。
「やっぱり……男の人の背中って、大きくてたくましいですね」
 琥珀さんは、はぁと息を付きながら俺の背中を撫でるように洗う。なんか、その感覚がくすぐったくて、思わずむずむずと動いてしまう。
「ほら、じっとしてくださいね、洗いにくいじゃないですか」
 琥珀さんが笑いながらそう言うが、
「だって、くすぐったいんだもん。しょうがないよ」
 こっちも笑いながらそう答える。

 なんか、気持ちいいなあ。一人で入るお風呂よりも、ずっと楽しいや。
「そうだ、家でもこうやって一緒に入らない?」
 おれは、是非そうしたいという気持ちを込めて提案するが
「私は構いませんけど、翡翠ちゃんや秋葉様がなんて言うか分かりませんよ〜」
 と、琥珀さんはこんな時に思い出したくない人物の事を言う。
「そうだったな……」
 多分、家でも二人仲良くなんてやってたら、視線が痛い。「見せつけてくれますね」と秋葉の厳しい視線。「志貴様は変態だと思います」と翡翠の冷たい視線。そう考えるとちょっとマズイかも……
「はぁ〜」
 俺はガックリと、肩を落とす。後ろでやっぱり琥珀さんがくすくすと笑う。
 ……なら、それこそこの状況を味わないと、と思った。

「はい、じゃぁ流しますよ」
 と、琥珀さんは桶に湯をくみ、背中からかけてくれる。ザァ、と体の泡を落とし、さっぱりとする。
「ありがとう」
 俺はそう言って、立ち上がろうとして……ふと考えた。
「そうだ」
 俺がそう言うと、琥珀さんはキョトンとする。
「今度は、琥珀さんがここに座って。日頃のお礼に今度は俺が背中を流してあげる」
 おれは、当たり前のようにそう提案した。
「えっ!?」
 琥珀さんが、急に真っ赤になりながら驚く。
「そんな、志貴さんに手は患わせません。自分の体くらい、自分で洗いますよ」
 と、また手をパタパタとやり、拒否をする。その慌てた仕草は、見た目と違って子供っぽく、何だか可愛らしい。
「こんな所でそんな事言わないの。俺の好意なんだから素直に受け取ってよ、ほら」
 と、立ち上がって琥珀さんを軽く引っ張り、半ば無理矢理琥珀さんをシャワーの前に位置させる。そうして俺は後ろに回り込み、今使っていたタオルに改めて石鹸を塗り込む。
「もう……志貴さん、そうと決めたら強引なんですから……」
 と、琥珀さんは諦めたように座ってくれた。
「そういうこと」
 俺は、嬉しく思いながら琥珀さんの背中に湯をかける。
 と、そこで問題発生。俺は逡巡してしまう。
 琥珀さんは、一向に洗い始めないのを疑問に思ったのか、こちらを振り向く。
「どうしました?」
 琥珀さんは聞いてくるが、俺は少し天井を見上げながら、困ったように
「……タオル」
 それだけ言う。
「え?」
 琥珀さんは返してくるが、俺は何だか気恥ずかしくなる。
「いや、タオル……取って……いいかなと思って」
 ぽりぽりと、泡の付いた指で鼻をかく。
「あ……」
 流石に琥珀さんも意味を理解して、少し赤くなる。が、くるりと正面をむき直すと、胸元でタオルを止めていた裾を緩め
「……いいですよ」
 と言ってくれた。

「うん、じゃぁ……」
 と、後ろからそれに手をかけ、するりとほどくようにする。琥珀さんが少し腰を上げ協力してくれたから、それは簡単に琥珀さんを隠していた役目を終える。
「……」
 正直、改めてみる姿に言葉を失う。
 琥珀さんが、俺の前で無防備に背中を晒してくれている。
 それだけで、こみ上げてくる物があった。
 日頃から「私の体は……」と言っている琥珀さんだが、そんな事は全くない。
 俺の目の前には、汚れている部分など一切無い、無垢な琥珀さんの背中が映し出されていた。
 真っ白に、僅かに赤く染まったその素肌は美しい。そして肩から背中、そしてお尻にかけてのそのラインに目を奪われ、クラクラとしてしまう。
 女性の背中も十分に広く、そして十分にセックスアピールになる。俺はそう感じてしまった。

 悟られないようゴクリと唾を飲み、俺は震えそうな手でその背中にタオルを当てた。いつも自分がそうしているようにゴシゴシとこすると悪いから、出来るだけ優しく、背中の表面をなぞるようにして洗う。
「あはっ、志貴さん、くすぐったいですよ」
 琥珀さんが逃れるように背中をくねらす。本人はそのつもりで無かろうが、それがあまりにも艶っぽく、刺激となって俺に伝わった。なんとか理性を保って背中を洗ってあげる。
 そうしている間に琥珀さんも腕とかを洗っている。
 楽しそうな顔。
 それなのに一人欲情している俺、なんだか罪悪感を感じていた。
「琥珀さん、流しますよ」
 俺はそれを抑える様になるべく陽気にそう言い、お湯を流してあげた。
 泡の付いて隠れた背中が、再び現れる。
 何度かお湯をかけ、泡を全て流し終える。
「志貴さん、ありがとうございます」
 と、琥珀さんが振り向く。
「……志貴さん?」