食堂。回りでは他のお客さんが楽しそうに食事をしている。そして……
「おいしいですねー」
 琥珀さんが小皿に盛られた煮物を口に運び、とても嬉しそうに言う。
「本当。ちょっと意外……」
 俺も山菜の入った蕎麦を食べ、素直な感想を漏らしてしまう。
 大概宿の食事は余程でないと「作り置き」なわけで、どうしても冷たかったり、給食風だったりする(実際とある温泉街ではそういう所で作らせているとか)。けどここは違った。ちゃんと暖かい皿が出て来て、その上小懐石風に綺麗にまとまっている。安さに媚びず、食事も怠りなしとは素晴らしい。琥珀さんの作る食事が何よりのご馳走であるのは確かだけど、ここの食事はそれに甲乙付けがたい物があった。

「ところで志貴さん、この後街まで下りてみませんか?」
 食事も進む中、琥珀さんが提案する。
「うーん……」
 俺はその提案をちょっとだけ、残念そうに思う。
 食事が終わって部屋に戻れば、昼間卓袱台があったところには既に布団がひかれてる筈。普段ならこの時間は、食後の語らいや入浴、(一応)勉強などしてる頃。琥珀さんも屋敷の仕事がまだ残っている頃。琥珀さんを部屋に呼ぶなり逆にお邪魔するなり、離れに連れ出すなりするのはまだ先の時間だ。
 だが、今日はそのいずれも無い。つまり、お楽しみの夜は随分長いということだ。それをみすみす逃すのは、ここまで来ていただけなかった。が……
「ただここまで来て泊まるだけじゃつまらないですから、外を見て回りましょうよ」
 と、琥珀さんは昼間通りかかった中心街を思い出してるのだろう。確かに静かなここも良いけど、籠もりきりも良くないか。
「わかった。お土産とか、今日の内に買っておくのも悪くないしね」
 何より、楽しみにしている琥珀さんを目の前にして、イヤとは言えない。俺も外に出てみようと思うようになった。
「それでは、食事終わったら少し休んで、そのまま行きましょう」
 確かに、貴重品その他は琥珀さんの持つ小さな手提げの中だったりするから、一度部屋に帰る必要もない。ここから玄関と部屋とは逆方向になるから、二度手間を避けるためにもそれがいいだろう。
「そうだね」
 部屋で頂いた茶菓子が美味しかったから、あれでも秋葉達に買ってってやろう。そう思いながら俺は焼き物の皿に箸を伸ばしていた。


 からころと、まだ暗くなりきらない道をふたつの音。旅館で借りた下駄を鳴らし、俺達は街へ向かう少しの下り坂を歩く。
「こうしてると、風情がありますね〜」
 隣で琥珀さんが楽しそうに足下を見ながら呟く。

 俺はそれを見て、琥珀さんとこうして並んで歩いてるだけでも、十分ここに来て良かったなと思う。遠野家の中では秋葉の後ろを一歩下がって歩く琥珀さんだが、俺にはこうして隣に並んでくれる。

 それは「使用人」ではなくて「恋人」として。
 
 当たり前なのかも知れないけど、その当たり前がとても幸せだった。

「琥珀さん、足下ばっか見てると危ないよ」
 俺はそう笑うが、自分だって慣れないから下見ていないと恐くてしょうがない。
 浴衣に下駄、日本の心は趣があると思う。逆にお祭りか温泉でもないとこういう出で立ちをしなくなったというのは、実は何だか寂しい気がする。

「あ、見えてきましたよ」
 琥珀さんが、明かりの灯るお店達を指差す。
 温泉街の中心。そこには有名な映画の舞台にもなった老舗旅館があり、川には昔のままの朱塗りの橋。川に添って上流を眺めると、所々で湯煙が上がって、この街らしさを醸し出している。
 更に川縁には公共の露天風呂。何でも昔偉いお坊さんか誰かが地面を叩いたらお湯が沸き出したと、この温泉街の成り立ちとして伝えられているらしい。
 街並みの中心に位置するはお寺。そのお坊さんが建立したのだろうか、由緒ある建物らしい。

「琥珀さん、とりあえずここ入ろうか?」
 そのお寺の入り口、一番目立つ土産物屋に入る。流石温泉街、目移りしそうな商品群。基本の温泉まんじゅうから銘菓、地の物に提灯、ペナントにテレカに何処にでもありそうなキーホルダーから子供のおもちゃまで。
 とりあえず、秋葉達へお菓子、有彦へ謝礼にキーホルダーを買う。包んで貰う間、琥珀さんは翡翠用か、あれこれ商品を見定めていた。
「どれが良いですかね〜」
 琥珀さんは決めかねてるようだ。手には小さな工芸品と、地名入りのキーホルダー。
「琥珀さんのお土産だったら、何でも喜ぶと思うよ」
「そうですかね……」
 困ったような笑いで、琥珀さんが天秤にかけるように両手を上げ下げしている。
「翡翠なら、実用的な物の方がいいかもね」
 正直、翡翠が工芸品を貰っても、あの殺風景の部屋の中ぽつんと置いてあったら、それはそれで不気味かも知れない。夜中勝手に動き出すとか、日頃から常でない物につき合わされてるだけあって、何とも不思議じゃない。
「そうですね、じゃぁ、こっちにしましょう」
 と、キーホルダーに決めたようだ。翡翠の持つ遠野家の鍵がこれからお世話になるであろうそれは、双子の女の子がにっこり笑っているデザインだった。

「さて……折角来たんだし、ちょっと見ていく?」
「そうですね、何かあるかもしれませんし」
 このままとんぼ返りもしゃくだから、お土産を片手にもう少し散策を続ける事とした。

 温泉街って、何か浮世離れしたところがある。日頃の街並みとは何十年か遅れているようだ。それはまるで、写真にセピア色のフィルターをかけたような懐かしさ。
 安らぎを求めてやってくる人のために、まるで時間の流れを遅くしてくれているような。
 それとも、正直これ以上活気がないだけなのか。
 不況を背景に大手旅館が閉館する世の中、ちょっと寂しい感じもした。

「あ……」
 そんな店先を歩いていると、ふと目に留まった所があった。
「遊戯場……かぁ」
 どことなく古めかしいけど、お祭りなんかでよく見る輪投げやら射的やらが遊び心をくすぐる。
「入ってみようか?」
 俺は琥珀さんに尋ねると
「もう、志貴さんったら。止めても無駄みたいですね」
 やる気満々の俺の顔を見て、苦笑しながら琥珀さんは答える。
「はは、気にしない気にしない」
 と、俺はその入り口をくぐっていた。

「うーん……」
 射的。
 眼鏡越しに、銃口をそれに向ける。
 パチン!
 コン
 空しい音と共に、その人形は横を向いただけだった。
「ありゃ〜またか……」
 ガックリと肩を落とし俺はさも残念だ、と言う顔で琥珀さんを見やる。
「ははっ、志貴さんたらダメですね〜」
 店のおじちゃんに自分で落としたキャラメルを受け取りながら、琥珀さんがコロコロと笑っていた。

「うー……」
 スマートボール。
 いわゆるフリップのないピンボールみたいなものか。何か夏休みの自由研究でも作ったような台だ。
 球を俺がいくら弾いても、一向に増える気配がない。狙いをすまして打ったつもりでも、釘に弾かれ左右する内に、あれよあれよと最下段に……
「……はい、琥珀さん。どうぞ」
 最後の1個。俺はさっきみたいに琥珀さんに台を開ける。
「それじゃ〜、えいっ」
 と、琥珀さんはそれこそ適当に弾く。が……
「わあ志貴さん、また入りましたよ!」
 と、大喜びの琥珀さん。どうしてか琥珀さんが弾くと、吸い込まれるように当たり口にボールが転がっていく。さっきから最後の1個を琥珀さんに任せて、これで3度目だ。
 チーン、ジャラジャラと、台のガラスの上に新たに15個の球。
「なんか、志貴さん呪われてるみたいですね〜」
 上機嫌に琥珀さんが言う。が、さっきからこうして琥珀さんの出す球で遊んでる俺は、段々と悲しくなっていた。
「本当、とことん運がないよ……」
 遊びに来てガックリ。結局、こんな所でもダメぶりを発揮してしまうとは……

 輪投げ。
 最後にせめてこれだけは……と思ったのだが、やっぱり俺には遊びの運がないらしい。
 かれこれ9本投げて、収穫ゼロ。これがラストの10本目。
「そうだ……琥珀さん、何か欲しいものある?」
 俺は、さっきからずっと狙っていたトロフィー(何となく取った証にしたかったから)を諦め、琥珀さんに振ってみる。
「え……私ですか?」
 唐突のその申し出に、琥珀さんは少し驚いたようだったが
「そうですね……あのガラスの兎さんなんていいですね〜」
 と、手前のそれを指差す。多分、簡単に取れるように控えめに選んでくれたのだろう。
 ……が、俺にはそれはそれでプレッシャーになる。

 十分に構え、今までにない緊張。
「……えい!」
 俺は全身全霊を込めて投げた。
 一直線に、輪はそれへと向かっていった……かに見えた

「うふふ……」
 帰り道。
 暗くなり、月光煌めく旅館までの上り坂を二人で歩く。
 琥珀さんは嬉しそうに自分の胸元のそれを眺めていた。
「はぁ〜、散々だったなぁ」
 と俺はひとりごちるが
「そんな事無いじゃないですか、こうしてちゃんと最後は取れたんですし」
 琥珀さんはこれ以上ないほど破顔してこちらを見る。

 投げた輪は確かに景品にかかった。
 ……ただし、隣の。
 コンと、ガラスの兎に跳ね返され、それこそ奇跡的とも言える所為だった。

 取れたのは、おもちゃのペンダント。どう見てもメッキのチェーンにプラスチックの赤い石。駄菓子屋で200円とかで売ってそうで、輪投げの代償にしては大分高く付いたような気がする。
 でも、それをプレゼントされた琥珀さんは大喜びだった。早速付けて、遊戯場の帰り道からもずっと手に取ったり、街灯にかざしたりしながら眺めていた。

「琥珀さん……いいですよ。そんなに気を遣わなくても」
 おれは、かえってそうされるのが申し訳ないような気がしていた。が
「何言ってるんですか、これは私の宝物ですよ。だって、志貴さんにプレゼントして貰ったんですから……」
 そう言って、琥珀さんは恥ずかしそうにする。
「それに……この旅行の、忘れられない思い出になりそうです」
 宝石に月光を透かし、遠くを見つめるようにして、琥珀さんが呟く。
 それを聞いて、立ち止まる。

 そっか、そう言えば……
 今までプレゼントとかそう言う物って何もあげられなかった。
 あるものといえば、形のない思い出ばかり。
 それももちろんとても大事だ。
 でも、記憶は無情にも忘れ去られていく。本当は脳の中で覚えているのに、思い出すきっかけを失うとそのまま無限の闇に投げ込まれてしまい、思い出す事が出来なくなってしまう。

 それは、例え愛した人の記憶でさえ。

 あのリボンが無ければ、俺は琥珀さんをあの時の少女だと思い出せなかった。

 無ければ、秋葉が、翡翠が、そして今ここに琥珀さんがいなかっただろう。

 「形の残る思い出」は時に人を救ってくれるんだ。
 人を幸せにしてくれるんだ。
 
 予期せぬ結果とは言え、それを残す事が出来たのかな……そう考えると、何だか嬉しくなった。

「うん。きっと俺も忘れないよ、今回の事」
「志貴さん……いやですよ、もう終わりみたいじゃないですか。明日もまだあるんですから」
「そっか、そうだったね」
 俺は笑うと、琥珀さんに近付いていた。
「さ、帰ろう。明日もあるから今夜はゆっくり寝ないとね」
 と、すっかり出てくる前の事を忘れていたのだが、

「っと…!」
 慣れない下駄で、上り坂。バランスを崩し下駄の先端を地面に打ち付けてしまったらしい。大きく体が傾く。
「あっ……!」
 琥珀さんが、声を上げる。そして……

「あっ……」
 琥珀さんに抱きつくような格好になり、俺は何とか転倒を免れていた。
「志……貴、さん……」
 そのまま、体重をかけないように体を戻しながら、腕は放さないで、琥珀さんを改めて抱きしめる。

 そうして、ふたり。
 ゆっくりと、見つめ合った。

「……」
「……志貴さん、思い出……」

 ゆっくり、琥珀さんの目が閉じる。
 その姿に吸い寄せられるように……
 俺達は、唇を重ねていた。

 光る胸元のペンダントは、その時には何にも換えられない豪華な宝飾に見えた。


 部屋に戻っても、俺達に言葉はなかった。


 キスをして、唇が離れると、琥珀さんはうっすらと目を開け
「……もっと、思い出を下さい」
 そう言ってきた。流石の俺でも意味を解し
「うん……分かったよ……」
 それ以上は何も言わず、こうして今ここにいる。

 夜も更け、ロビーも消灯されていた。多分殆どの部屋は眠りについている頃だろう。
 部屋に帰ってくると、並べられた布団が2組。
 そのまま布団に上がれば良かったものの、一瞬の気後れが致命傷となった。
 当たり前なのに、さっきまでの事に対して露骨とも思えるそれは、そう自然であるべき行為を躊躇わせていた。
 タイミングを失い、どうにもきっかけが持てず互いに言葉を交わせぬまま、こうしている。

 俺は窓から覗く景色を、ぼうとしながら眺めていた。
 何とか状況を打破したい……そう思う視界に、ふと入ったのは、浴室の明かり。

「……琥珀さん」
「!……はい」
 振り向いて突然の俺の呼びかけに、緊張した面持ちで琥珀さんが答える
 その目は複雑で、期待ともおびえとも取れる色を伺わせていた。
「お風呂……入りませんか?」
 昼間とは逆に、今度は俺がそう切り出す。そうする事で流れを変えたい、そういう思いが俺にあった。
「そう……ですね。外を歩きましたからね……」
 と、ホッとした、残念そうな表情で琥珀さんも賛同する。
 俺はそのまま、手拭いだけ持って立ち上がる。琥珀さんもすぐに簡単に準備を整え、俺に続いた。

 静かな廊下を、2人で歩く。まるで誰もいないみたいに。
 この調子じゃ、風呂もまた1人かな……

 ……待てよ、「また」って事はもしかして……?
 俺は、僅かな記憶を辿る……それは夕食、食堂の中。

 浴場の前に来る。隣同士の入り口で、男と女の暖簾が掛かっている。
「じゃぁ、女湯はこちらなので……」
 と、琥珀さんがくぐろうとした時だった。

「待って、琥珀さん」
 俺は、にっこりと笑いながら呼び止めた。

「一緒に、入ろうよ」