「静かですね……」
「うん、お客さんも殆どいないみたいだしね」
 フロントでちらりと見た客室リストみたいなものは、やはり殆ど埋まっていなかった。恐らくこのフロアもこの部屋くらいなのではないか。

 だから……

「だから、少しくらい大きな声出しても、大丈夫かな」
「えっ?」
 俺のその言葉に、琥珀さんはピクリと反応する
「ま、まさか……」
 琥珀さんは苦笑するが、俺は逆にニヤリとする。
「そ、いうこと」
 俺は膝立ちでちゃぶ台を迂回して、琥珀さんに近付く。逆に琥珀さんはスルスルと後ろに下がる。
「ダメですよ……こんな昼間から」
 いたずらっ子をたしなめるように琥珀さんが言うが、俺は聞く耳を持たない。
「折角来たんだからさ、楽しまなくちゃね」
 二人っきりになりたくて誘った旅行だから、こういう展開は琥珀さんも承知の上だと思っていた。
 今日は誰にも邪魔をされないから、琥珀さんを堪能したい。俺は密かにそう決めていたのだった。

 畳を擦るふたつの音。
 寄せる俺と引く琥珀さん。
 琥珀さんの外出用の白のワンピースが、キュートな兎を連想させる。
 ならば、追いつめている俺はさしずめ狼かな。
 そんな事を考えながら、俺は楽しみながら琥珀さんとの距離を詰めていった。

「あ……」
 壁を背に、いよいよ後がなくなる琥珀さん。俺を見ていじらしそうにする。
「ふふ」
 俺はニコリとして、ゆっくりと近付き、その肩に手を置いた。
「もうっ、志貴さん。今日は積極的ですね……」
 最後にそう反論させておいて、俺はその可愛らしい唇にそっと自分の唇を重ねていった。

「んっ……」

 最初は、触れるだけのキス。
 ゆっくりと、お互いのその感触を確かめるように柔らかさを伝える。その間だけ、時が止まるように願いながら。
 琥珀さんの肩の力が抜ける。俺は、優しく琥珀さんを引き寄せ、抱きしめながら、なおも口づけを続ける。
 俺の背中に、琥珀さんのその華奢な両の腕が回される。背中を探るようになでさすりながら、俺の存在感を確かめるように。
 大丈夫です。俺はここにいます。
 そう言葉でなく、心を伝えるように唇に集中する。

 目は閉じたまま、その感触だけをどれくらい味わったか。俺はゆっくりと唇を離す。

「あ……」

 唇が離れる瞬間、琥珀さんの小さな声。薄目を開け、行かないで、という瞳。その瞳に引き戻されるように、もう一度触れさせる。
 ただ抱き合い、そして口づけを。
 ただ琥珀さんだけを想い、想われ。
 時に追われないその時に。永遠とも思えるその刹那に。
 俺は満たされるその気持ちに、こころを溶かしていた。

 ゆっくり体をずらして、琥珀さんをそっと横たえる。頭を打たぬよう手を添えながら、その姿を畳に染みこませるように。
 抱きしめたまま、俺は名残惜しくも顔を上げる。俺の影から段々と光を得て、浮かび上がってくる琥珀さんの顔。一片の曇りもなく端正で、目を瞑る弥勒の姿。
 やがて、開かれるその瞳。黄金色の虹彩の奧に、遠野志貴だけが映り込むその幸福感。優しく微笑みかける俺に、琥珀さんの閉じていた唇がゆっくりと動き出す。

「……空を、飛んでいるようでした。ふわりと、重力感が失われて」
 ひとつひとつ、言葉を探すように
「……水に包まれて……いいえ、自分がそうなってしまったように、存在感が……すべて……」
 穏やかな微笑みを見せながら
「……志貴さんに、奪われてしまったようです」
 少女は、ただ幸せだという顔をして、そう言った。

 「琥珀さん……」
 俺は沸き上がる愛しさを、ただぐっと噛み締めていた。ともすれば落涙してしまいそうな気持ち。
 すべてを絡め取り、愛すべきその人を自分に融和させてしまいたい程に。
 俺は、もう一度顔を近づけた。

「……やっぱり、ダメです」
 琥珀さんは、優しく笑いながら、俺を見上げた。
「こんな、陽が高いじゃないですか。それに、こんな状態で」
 部屋の片隅、布団も引いていない畳の上。
「ロマンの欠片も、感じられないじゃないですか」
 琥珀さんは、いつものように「めっ」というような顔をする。
「あ……あ、そうだね……」
 俺は、ゆっくりと体を起こす。するりと、背中から手が滑り落ちる感触。何か寂しくて、その温もりを背中の全神経が追っていくような感触に捕らわれる。
 琥珀さんも上体を起こし、少し赤くなりながらも笑顔になる。
「ほら……時間はたくさんありますから、ゆっくり楽しみましょう」
 そう言って、唇に軽くキスをしてくれた。

 気持ちが落ち着いた頃
「ねっ、志貴さん。折角来たんですから、お風呂入りましょう」
 琥珀さんは、楽しそうに提案する。
「そうですね、お風呂は何度入っても良いものですからね」
 俺は、快く同意する。
 考えれば、ここに来るまでに電車に揺られ、僅かではあるが歩いてきた。日頃の疲れと、旅の疲れが確かにある。それを流すのも悪くないと思った。
「じゃぁ、そうと決まれば行きましょうか。幸い、食事まではまだ時間がありそうですし」
 フロントで貰った紙を見て、確認する。
「はい、途中まではご一緒で」
 琥珀さんはそう言って、自分の旅行カバンを開いていた。


「ふ〜」
 湯船につかり、その心地よさに思わず声が出る。
 内風呂ではあるが露天を思わせるような石の造りのそれは、改めて温泉であるという事を認識させてくれる。
 料金の割、どころか本格的な造りに正直驚きを隠せなかった。
 そして手に取る透明な湯。まるでただの湯の様に思えて何か違う、その不思議な感じに体の奧に眠っていたであろう疲れも染み出してきているようだった。

 のぼせ頭で、先程の事を回想する。
「少し、先走りすぎたかな……」
 正直、今となり反省している。あのまま畳の上で……と思うと、確かに下になっていた琥珀さんに失礼だったに違いない。まだ座椅子も卓袱台も出たあの場は、生活空間とも言える場所、いわば居間か。逆に客室というのは昼間は居間、夜は寝室に様変わりするという、日本式の部屋の奥深さを端的に表した場所ではないか、などと思慮を巡らせてしまう。

「頭を冷やさなきゃダメかな」
 風呂に来て頭を冷やすとは何とも矛盾した表現だが、琥珀さんが俺を風呂に誘ったのはその意味もあったのやも知れない。琥珀さんはさりげなくそう言ったところを見せるので、どうしても同年代の女の子には思えない。それは琥珀さんが年上に見える、という意味でなく自分が子供っぽいという意味だ。何だか情けない。そう考えると、何だか悪い気がしてきてしまった。
「後で、謝っておいた方がいいかな」
 そう決めて、俺は気合いを入れようと立ち上がり、本当に洗い場の桶に水を溜め、頭から被る。
「うわっ!、冷た!!」
 のぼせた体にそれは予想以上の衝撃だった。慌てて湯船に飛び込む。
「あちちちち!」
 今度は逆に冷えた頭に熱湯のような刺激。これじゃ温泉に来たのに血行不順で貧血になっちゃうや。自分の頭の悪さに辟易しながら、もう一度深く息を付いた。

「多分、琥珀さんはまだ入ってるだろうな……」
 自分ではゆっくり過ぎるほど入ったつもりだったけど、元々が行水の俺だけあって、さほど時間は経過していなかった。女性だし、更に来る前から温泉を楽しみにしていた琥珀さんの事だ、ゆっくり楽しんでいるだろう。
 俺は、浴衣に着替えると浴場と部屋を繋ぐ間にあるロビーに行き、マッサージチェアに腰掛ける。幸い小銭を用意してなかったのでそれは動かなかったが、体全体を覆うような感触は格別だ。体を預けながら、通路を眺める。
「ゆっくり、ここで待ってみますか……」
 そう思い暫く座っていると、不覚にもウトウトとしてきた。
「やべ……昨日は殆ど寝れなかったし、今日も長旅だったからな……」

 前日、準備など殆ど必要としないハズなのに、それでもあれこれと部屋のモノを引っ張り出し、更に楽しみで眠れないなどという、遠足に行く小学生並みの事をしてしまった上にここまでの道程。なんだかんだ言っても座っているだけでも体力は消耗する。慣れぬ土地で辺りを見回しこの宿を探したのもあり、心も知らず内に緊張していたのだろう。
 俺はマズイとは思いつつも、チェアの心地よさと、風呂に入って体が温まったのもあって、急速に意識を落としていった……

「……貴さん、志貴さん」
 遠くで、琥珀さんの呼ぶ声が聞こえる。
 はっと、目が覚める。
「イヤですよ、志貴さん。折角お風呂に入ったんですから、こんな所で寝ちゃったら暖まったものも冷えてしまいますよ〜」
 琥珀さんは、仕方ないですねー、という顔をしながら俺を見ていた。
「あ……琥珀さん」
 恥ずかしい所を見られたな、そう思って何故か赤面してしまう。
「でも、こんな所で寝ててもなかなか起きないのって、さすがは志貴さん、といった感じですね。翡翠ちゃんの気持ちが少し分かった気がします」
 多分、何度も呼び起こされていたのだろう。そう思うと自分の寝付きの良さと眠りの深さに、自分でも呆れてしまう。
「そうだね……これが日課なんだもんな、翡翠は」
 まだ少しぼーっとした頭で、目の前の琥珀さんを見て苦笑する。

 その時初めて気付いたが、琥珀さんも旅館の浴衣を着ていた。日頃から割烹着だからその姿は様になっているが、浴衣姿というのはまた新鮮で、いつもより低い位置にある細帯も何だか滑稽かも知れない。そして日頃は隠されている、その浴衣の合わせ目から覗く透き通るような肌色に、思わずクラクラしてしまう。
 ……そう言えば、琥珀さんに起こして貰うなんて珍しい。普段は翡翠の役目だから、何だかそれも新鮮だ。
「そうだ……今度から、起こしに来て貰えませんか?」
 俺は提案するが、琥珀さんは
「ダメですよ、これ以上翡翠ちゃんの仕事を取ったら、何言われるか分かりませんからね〜」
 と、惜しくも笑って取り下げられてしまった。
「ちぇ、琥珀さんならきっとすぐにでも起きるのになぁ」
 と食い下がってみるが、琥珀さんは笑って
「それは、今ので十分無理だって分かりましたから」
 と、にべもない返事。
「ははは……」
「ふふふ……」
 二人、ついおかしくなって笑ってしまう。

「そうだ、琥珀さん、今どれくらい?」
 俺は、ようやく時間を思い出す。
「そうですね、そろそろお食事に丁度良いお時間ですよ」
 琥珀さんはロビーの柱時計を見て、時間を確認する。
「そっか。じゃ、一度部屋に戻って食堂に行きますか」
 疲れも癒し、軽く眠って満たされたら、今度はお腹が空いてきた。我ながら欲望に正直だなと苦笑する。
「そうですね。ほら、鍵は志貴さんが持ってるんですよ、早く開けてくださらないと」
 そうだ、着替えの中には普段ならナイフがあるべき所に部屋の鍵。こんな時だからこそ、ナイフは部屋の引き出しに閉まって置いてきたのだ。
「おっと、そうだったね。じゃ、戻ろう」
 俺はチェアから立ち上がると、琥珀さんを連れてロビーを後にした。