あ・うんの庭で






「はい。志貴さん、どうぞ」
 畳の部屋。
 俺は出されたお茶をゆっくりと啜る。
 そして一息。
「……ふふふっ」
 俺は思わずニヤケ笑いをしてしまう。

「どうしたんですか志貴さん、突然に」
 ちゃぶ台の向こう。琥珀さんはそれを見て、こちらもにこにこと笑いながらそう訪ねてくる。
「いやぁ……だってさぁ」
 俺は目の前の琥珀さんを見て……そして部屋を見渡す。
「……本当に来ちゃったんだなぁって」
 琥珀さんも、そんな俺につられて回りを見る。
「そうですね……本当に来ちゃいましたね」
 そうして二人見つめ、あははと笑い出してしまう。

 ここは、遠野家のお屋敷でも、ましてやその離れでもない。
 どこかといえば、温泉旅館である。
 俺と琥珀さんは、二人だけでここにやってきた。

「いいところですね……」
「うん」
 琥珀さんのその言葉に、俺も大いに賛同する。
 都会の喧噪など何処吹く風、ここを支配しているのは静寂と自然だけだった。

 あれから、いくらかの時が経って。
 琥珀さんは、遠野家に戻ってきた。
 愛する人が側にいる事は、何よりの幸せで。
 それが、永遠に続けばいいと思っている。
 
 現実は正直で、なかなか二人だけの時間は取れなくて。
 俺はなにかいい策はないものかと思っていた。
 時間を忘れてゆっくりとしたい。行き着く先は「旅に出る」という事だった。

「まぁ、いつもふらふらと旅行に出かけちゃう奴のお墨付きだけあるな。こりゃ、有彦にも感謝しないとな」
 俺は、珍しくその友人を賛美する。しかし実際、有彦の助けがなければこの旅行も実現しなかったのである。

 その旅先と、費用をどうしようか、最大の難関はそれだった。
 流石に秋葉に出してなど言えず、ましてや琥珀さんに出して貰うのはもっての他だ。結局、本屋でガイドブックを立ち読みしては、あれこれと随分悩む日々だった。
 が、意外にその解決方法があっさりと見つかった、というより降ってきた。

 有彦である。

 あいつがしょっちゅう学校をサボっては日帰りのパック旅行に出かけるのは皆に知れているところだ。
 今回の旅行は誰にも秘密にして驚かせてやりたい節もあったのだが、俺一人では万策尽きてしまった。
 で、俺が最後の手段で有彦に相談したところ、あいつは財布の中から1枚の紙を取りだした。

 「宿泊ご優待券」

「ま、俺も流石に泊まる気はないから、お前にくれてやるよ」
 そう言う有彦のお陰で、あっけなく決着してしまった。
 聞けば、最近の温泉はやはり不況で、あの手この手で客寄せのサービスを行ってるらしい。その一環として、パック旅行の休憩先の旅館で貰ったのがこれだと言う事だ。平日の宿泊が半額、最大2名まで。これならば少しずつ貯めておけば何とかなる金額だった。
 あまりにおあつらえ向きのその券を、俺はありがたく頂戴した、というわけだ。
「そこ、悪くないぜ。この俺様が言うくらいだからな」
 と、聖人君子にも見えた有彦。
 でもまぁ、有彦にこの計画が知れた時点で、実行した暁には噂がすぐに広まるのはこの際仕方がなかった。

 そして俺は僅かな昼食代を貯め、遂に実行と移したのであった。

「家庭的な感じが、逆に旅行に来た事を忘れさせてくれますね」
 琥珀さんの言葉に、ふと、有彦の事を思い出す。
 やっぱり、あいつも家庭的なのが気に入ってるんだろうな。両親は不在だから、こういうのどかで落ち着けるところがあいつの気に入りそうなところだ。
 実際、俺も有馬の家のような(自分だけだが)堅苦しさとも違う、遠野家のような非現実的なのとも違うこの雰囲気が、心底気に入った。
 飾っているわけでもない、かといって粗末でない。その絶妙なバランスにある感じ。雑誌にも載らないような所だけど、良い所はいくらでもあるんだなと思わされた。

「にしても、初めて聞かされた時は、本当びっくりしましたよ。いきなり「旅に出よう」ですものね〜」
 琥珀さんが思い出しながら、ふふっと笑う。
 言われて俺は、恥ずかしくなってしまう。

 幾度目かの逢瀬の夜、俺は琥珀さんに確かにそう言った。旅と言っても高々一泊旅行だけど、俺にしてみれば大英断だった。
 琥珀さんはキョトンとしたけど、すぐに「ええ、いいですねぇ」と賛同してくれた。
 そこが離れでなかったら、俺の歓喜の声に秋葉も翡翠も計画を知るところとなっていたであろう。
 日程は程なく決まった。まあ俺次第であったので、平日学校をサボって行く事にした。
 問題は、秋葉と翡翠である。なにかとうるさい二人を説き伏せるのは無理だろうから、俺達は今日、学校に行く秋葉を見送った後にこっそり屋敷を抜け出してきたのだった。

 各駅電車に揺られて数時間。乗り継いだローカル線のその先に目的地はあった。
 観光シーズンなら賑わうその温泉街も、流石に平日の昼間となると静かだった。でも、俺の求めるものがそれだった。
 予約した旅館も中心地から少し外れた静かな場所。思った以上に綺麗な外観で、とてもこんなチケットをくれるとは思えないほどだった。
 そして部屋の鍵を受け取ってこの部屋に荷物を置き、畳に座って琥珀さんの注ぐお茶を頂いて漸く実感が沸いてきた、といったところだ。

「今頃、二人はどうしてるかな……?」
 お茶菓子をくわえながら、俺は残された二人のことを思う。
「そうですね……秋葉様と翡翠ちゃんって、何か新鮮な組み合わせじゃないですか」
 琥珀さんはそう言ってコロコロと笑う。
 確かに、あの二人は意外にそうかも知れない。きっと今頃二人して目を見合わせてるだろうな。許せ、翡翠。
「ま、後で言われそうだからお土産くらいは持っていかないとな」
 そう考え、秋葉と翡翠の4つの冷たい目を思い出して、思わず苦笑いしてしまう。それに有彦を始めとしたクラスメイトの冷やかしとか。

 まぁ、そう言う未来の事はこの際忘れて、今はこの幸せを噛み締めていよう。

 目の前には、琥珀さんがいる。
 それだけで、十分に思えた。