昨日の公園で、腰を下ろす。ラジオ体操の子供が、元気に動き回っている。
対照的に、俺は動く気力もなかった。本当に精気を抜かれてしまった。ふと浮かび苦笑する。
どうしたらいいんだ……
近い時系列の「これから」と、ずっと続くであろう「これから」
全て忘れられるなら、最初からやっている。できない、そんな自分である事は悲しいほど解りすぎていた。
彷徨う事もなく、時間だけが過ぎていく。
気付けば、闇。
眠っていたのか、気を失っていたのか、自分でも解らなかった。変な汗で体中が気持ち悪い。
結局。
何も浮かばなかった。
意識だけはくやしいくらいにはっきりしている。ディパックを掴み、立ち上がった。
「あ」
ふと、その軽さに改めて気が付く。それもそうだ、一番かさばっていたものが無かったから。
「服、置いてきちゃったか……」
自らの不注意に嫌悪する。
「取りに戻る……のか?」
そうひとりごちる。乾家にはたかだか1日で戻れそうもない。ましてや有馬の家にもだ。それは自分の意固地なのかも知れないが。
一瞬、時南の家に戻ろうとする自分に嫌悪する。戻ると言う事は、何かを期待している自分がいる事を意味していた。
何を。
解っているのに、それを認めたくない自分がいる。
「……ままよ」
きっと朝のように、気付かれない内に出ていけばいい。そう思って歩を進める俺がいた。
昨日と、同じ目の前の景色。
今更ながら躊躇する。よく考えなくても、勝手に上がって出ていくのは泥棒の仕業以外の何者でもない。思考の浅さに頭が痛くなる。考えも纏まらないまま、最後の曲がり角を曲がった時だった。
「あっ……」
そこに、彼女がいた。普段着にサンダル、腕を後ろ手に組んで下を見つめ、足下の地面を軽く蹴る仕草。
考えが甘かった。「何とかなる」なんて考え方は、全く役にも立っていなかった。
思わず、足が止まる。ザリッという、自己の存在を示してしまうような音。
「あっ……志貴君、おかえり」
少し静かな声。でも、なんて事ないように、朱鷺恵さんはいつもの笑顔だった。
動けない俺のかわりに、こちらまで歩み寄ってくる。
「どこ行ってたの?朝起きたらいなくなっちゃってて、心配したんだから」
「戻ってくると思ってたのに、なかなか帰ってこなかったから、こうして外でずっと待ってたのよ」
「食事も、お風呂も用意してあるわ。さっ、戻りましょう」
俺の力無く垂れ下がった右手を掴み、引っ張ろうとする。
「……志貴君?」
正直、どうしていいのか解らなかった。
顔も、行動も。
「ほら、ね」
「……はい」
引かれるまま、俺は木偶のように歩いていた。どうにでもなれとも思えず、かといってどうする事も出来ず、門をくぐっていた。
……
布団に座り込み、ただ壁を見つめる。
流されてる。そんな気がしてならなかった。会話らしい会話はしなかったけど、それは俺が明らかな壁を作ってしまっているからだろう。最初に話しかけた以外は、向こうも積極的に声をかけてくる訳でもなく、ただ必要な事くらいしかやりとりしなかった。
昼間のことがあってか、眠れない。夜は長いだろう。気も紛らわせない静寂。また昨日のように考えてしまうなら、参ってしまいそうだった。
コン、コン
ゆっくりとドアを叩く音。
「志貴君、ちょっと、いいかな?」
「……」
躊躇われた。自分の中の様々な想いが交錯して逡巡してしまう。
コン、コン
だが……
「……どうぞ」
自らの判断で、退路を塞いでしまった。
「眠れないから、話し相手になって貰おうと思って」
朱鷺恵さんはパジャマ姿で、お盆にお茶と菓子を持って入ってきた。そのまま、俺の前に座る。
「はい」
渡された紅茶をゆっくりと口に運ぶ。さっきは味も確認せずに食事していたが、今は落ち着いているのだろう、味と香りを楽しむ余裕があった。
味?香り?明らかに普通とは違う感じがする。
「あれ……これ……」
正直あまり得意ではない、でも不思議な感じ。そんな口当たりだった。
「あ、分かる?只の紅茶じゃ余計眠れなくなるから、少しお父さんのブランデーを混ぜてみたの。内緒よ」
唇に手を当ておどける朱鷺恵さんを見て、少し落ち着く。気遣って貰えてるのかな、そんな気分で、何だか自分だけ塞がっていたのがバカらしくなってきた。一緒に出されたスコーンを軽く口にして、ようやく和めたような気がした。
「ふぅ、ちょっとお腹が空いてたんですよね」
やっと、正直なところを口にできた。
「そう?じゃ、私の分もどうぞ。せっかくだから、今日の事話して」
「う〜ん、一日ぼーっとしてたかな」
思い出して、頭をぽりぽりとかく。朱鷺恵さんも笑って
「私も、ずーっとそうしてた」
顔を見合わせて、二人してふふっと笑う。
それから、何気ない会話が続いた。堅苦しい話は選ばずに、家出中の事、有彦とのバカ騒ぎの事、今までは話さなかったような気さくな話ができた。朱鷺恵さんからも、学校の事、先生の事、友達の事。普通の話なのに、とても心地よかった。垣根が一つ取れたような気分。身近に感じる事が出来た。
しばらく話すと、いよいよ僅かながらも酔いが回ってきた。もともとそんな強い方では無いから、少しだけぽーっとしてくる。でも酩酊ではなく、高揚感。気持ちの良い感覚が、ますます俺を救ってくれていた。
「そっか、でもそろそろ家の方にも帰ってあげてね。私がかくまってたなんて知れたら、志貴君だけじゃなくて私まで言われちゃうわ」
「そうですね。そろそろ休みも後半だし」
「あ、宿題は〜?」
「ギクッ」
「もう、高校行けなくっても知らないよ〜。ふふっ」
他愛のない話で、朱鷺恵さんと一緒にいられる。これだけ幸せな時間があったなんて、知らなかった。
ふと、カップを見る。最後の一口を流し込み、お盆に戻す。
「ふう」
同じように朱鷺恵さんもカップを戻す。
カチャ
その音に合わせて、ちょうど言葉をなくす。
ちょっと名残惜しいけど、区切りもいいしお開きかなと思った。話し足りなかったら、明日いくらでも話せばいいじゃないか。俺はそんな思いだった。
朱鷺恵さんは、カップを見つめていた。そして……
「ねえ、志貴君。昨日の事だけど……」
急に顔を上げて、切り出してきた。いつもとちょっと違う、妖しげな表情に見えた。そして、ほのかな朱の色は、お酒の所為?それとも……?
「あ……はい……気にして、ませんから」
俺は少しどきりとしながらも、答える。
「ゴメンね。ちょっと度が過ぎたかなって、昼間反省してたの」
朱鷺恵さんも悪そうに、そう返してきた。
お互いが分かれば、いいじゃないか。
このまま、いつも通りに戻れるよ。
そして、もっと親しくなれる。
今日みたいに話せる。
そう、思えた。
のに……
「……でも、どんな気持ちだった?」
次の質問が、その希望をうち砕いた。
「っ……!?」
「私にあんな事されて、志貴君はどんな気持ちだった?」
思考の停止。脈拍の上昇。
「気持ち、良かった?」
そんなの、答えられる訳がなかった。朱鷺恵さんはじっとこちらを見つめたまま、目を離さない。だんだんと、その色にナニカが混じっている事に気付いていた。
「それとも……私じゃ、嫌だった?」
一瞬、悲しそうな顔をしたから
「そ、そんなことないです!」
つい、口を衝いてしまった。
「……っ!」
バカか、俺は。これじゃまったく……
「そう。……嬉しいな」
「えっ?」
伏せ目がちの朱鷺恵さんが、思いがけぬ言葉を返した。
「私、あんな事しちゃって、嫌われたと思った。でも、帰ってきてくれたから、安心した。だから、決めたの」
「志貴君。私の事、どう思ってる?」
「私じゃ、ダメ?」
朱鷺恵さんの一つ一つの言葉が、脳幹をグラグラと揺らす。
ワカラナイ。
朱鷺恵さんがどういう気持ちで、どういう決心なのかも。
これから、何がしたいのかも。
俺の中で押しとどめる理性が、それを認めようとはしなかった。
「私、志貴君にもっとしてあげる……」
気付けば、目の前に体を移動させてきていた。
顔がゆっくりと近付いて……そして……
ふわり
何かが、唇に触れていた。
|