「いただきます」
 並べられた椀にゆっくりと箸を付ける俺を、テーブルの向かいに座った朱鷺恵さんはじっと見つめてくる。
「どう?口に合うかしら……」
 少し不安げに聞いてくる。
「美味しいですよ」
 お世辞でも何でもない、正直な感想を述べる。
「よかった」
 ぱっと明るくなり、安心したような顔。見てるこちらが気恥ずかしくなり、慌てて食事に目を移す。

 朱鷺恵さんの家、時南医院に着く頃、緊張から解放された故もあってか俺の腹が空しく鳴いた。朱鷺恵さんはクスリと笑い
「なにか、作ってあげるね。簡単なものしか出来ないけど」
 と、俺に部屋をあてがってくれた後、この食事を用意してくれたのだった。献立は、至って普通。でも、日頃有彦といるとコンビニや店屋物に限られてしまうので、こういう食事は家を出てから久しぶりだった。 さらに、朱鷺恵さんが作ってくれた、そう思うだけでなんだか味も違うような気がした。
空腹には勝てず、会話もそこそこにありがたく頂戴する。なんか、心まで満たされる気がした。

 しばらくして、余裕が生まれたが、そうなると気になるのは注がれる視線だった。先程からずっと、飽きもしないで俺を見つめている目を、見返す事が出来なかった。そうして、ちらちらと見ているうちに
「どうしたの?」
 朱鷺恵さんが笑顔で聞いてくる。だからその笑顔が気になるのに……
「いや……なんか、見られてると恥ずかしいな、って」
「だって、志貴君がとても美味しそうに食べてくれるから、こっちまで嬉しくなっちゃうんだもの」
 思わず掴んでいたものを落としそうになる。
「……そういや、朱鷺恵さんは食べないんですか?」
「まさか。志貴君と違って私は三食きちんと頂いてるし、これで夜食なんて食べたら体に良くないわ。気にしなくて良いから、好きなだけ食べてね」
「そうですか……」
 結局、じーっと見続けられる食事は続いた。けど、食事は美味しかったし、理由はどうあれ喜んでくれるのに悪い気はしなかった。

 食後のお茶も煎れてもらい、のんびりとすすっていたところ
「こうしてると……」
 唐突に、朱鷺恵さんが切り出した。
「?」
「なんか、新婚の夫婦みたいだね」
「ぶっ!」
 思いも寄らなかった一言に、むせかえりそうになる。
「あ、そう言えばさっきまではカップルだったのに、もう結婚しちゃったんだ。恥ずかしいな」
 似合わず照れながら、朱鷺恵さんはとんでも無い事を言ってくれた。俺はケホケホと気管に入りそうになったお茶を出しながら
「……悪い冗談は止めてくださいよ」
 思わずそう言ってしまった。
 すると、朱鷺恵さんは途端に真剣な顔になり
「そう?冗談だと思う?」
「えっ……?」
 俺の目をじっと見つめ、そう聞いてきた。
「私は、志貴君とこうしていられたらなあって、思うわ」
「ちょ、ちょっと……」
 意外な展開に、言葉を失う。
「志貴君、私とじゃ、イヤ……?」
 気付けばいつものようなニコニコと、屈託のない笑顔。
 そんな中、一瞬「本気」の目が見えた気がした。
「イヤって……」
 緊張感が俺を包む。

 何が?
 ワカラナイ
 彼女?
 それとも結婚?

 答えられない。答えて良いのか解らない。俺の中の時は止まり、なのに心臓だけは早鐘を打っていた。

「俺は……」
 答えは一つじゃないか。
 自分にそう言い聞かせ、答えてしまおうとした。
 イヤじゃない……

「……なーんてね」
「えっ?」
 さっきまでの緊張が嘘のように、朱鷺恵さんはあっけらかんとした表情で俺を現実に引き戻した。
「ビックリした?志貴君にはまだ早いよねー」
 ニコニコと、いつも通りの笑顔。俺はからかわれたみたいで、少々ばつが悪くなった。
「本当に、それこそ悪い冗談ですよ……」
「ごめんねー。でも、悪くなかったでしょ?」
「……」
 なんか、答えづらい。心を見透かされてるようで、恥ずかしくなってきてしまった。
「ごちそうさま。もう遅いから、今日はこのくらいにしましょう」
 無理矢理に話を切り上げると、俺は席を立った。
「あ、それじゃぁ後は私がやるから、志貴君は先に部屋にでも行って待ってて、お風呂用意するわ」
「いいですよ、そこまで……」
「もう、ダメよ。汗もいっぱいかいてるだろうから清潔にしないと体にも良くないわ。遠慮しなくても良いの、ゆっくりして頂戴」
「はい……」
 結局、朱鷺恵さんに何から何までお世話になりっぱなしで、悪いなぁと思った。けど、それ以上にありがたかったから、この際だから言葉に甘える事にした。俺はゆっくりと部屋に戻って、呼ばれるのを待つ事に決めた。


「ふい〜」
 体を洗い、ためて置いたお湯をかぶり、改めて生き返った気分になる。一日の汗を流すのは気持ちがいい。
「それにしても……」
 ふと、浴室を見渡す。

 広い。

 通常の家の浴室に比べて、かなり広いと思う。ちょっと低価格の旅館だったらこれくらいでは?と思わせるほどだ。明らかに一人で入るのには大きすぎる。家族風呂だろうか?
「まぁ、大きいに越した事はないか」
 他人の家の事だし、きっと建てた人あたりが風呂好きなんだろう。そう勝手に合点して、シャンプーに手を伸ばす。ガシガシと、適当に洗ってると、ガラリと向こうの戸を開ける音。

「どう?湯加減大丈夫?」
「あっ、はい。問題ないです」
「タオル、ここに置いておくね」
「はい」
 ……正直、ビックリした。まさかガラス戸隔てた向こうに朱鷺恵さんが来るとは。向こうは心遣いのつもりだろうけど、こっちとしてはドキドキものだった。
「これ、洗濯しておくね」
「あ……」
 不覚。脱いだものをそのまま脱衣所に置いておいてしまった。シャツはともかく、下着は……何だか悲しくなった。

「このお風呂、広いですね」
 矛先を変えて、朱鷺恵さんに聞いてみる。
「ん?まぁね。私としては少々落ち着かないけど、お父さんは気に入ってるみたいね」
「へぇ、先生は風呂好きなんですか?」
「そうじゃないわよ。妾さんと一緒に入るのには広い方が都合いい、って言ってたわ」
「え……?」
 妾。あまりなじみのない言葉だけど、「一緒に入る」というところから大体想像がつく。……なんだかあのヤブ医者の顔が浮かんでくる気がした。ナニをここでやらかしてるんだ。
「はぁ……」
 どう返したらいいか解らず、生返事をする。

 しばらく、頭をガシガシやる。どうもまだ気配があるらしく、落ち着かない。
「……私も、入ろうかなぁ」
 ふと、隣からそんな声がする。
「いいお湯ですよ。すぐ出ますから冷めないうちにどうぞ」
「うん、じゃぁ、そうするね」
 シャワーを取り出して、蛇口を捻る。一瞬の冷水の後、お湯に変わったところで頭を洗い流す。ジャーッ、と言う噴射音が耳を支配している。目をつぶり、頭を下げていたために

 そのドアを開ける音に

 近寄る気配に

 気付く事が出来なかった。

「ん……?」
 妙に涼しい風を感じ、頭を流し終わったところで横を見て、思わず硬直してしまった。
 朱鷺恵さんが、そこにいた。しかもバスタオル一枚。
「な、ななっ!!?」
あわてて縮こまる。とりあえず自分の大事な部分を隠し、事なきを得たかに見えた。
「志貴君、一緒には〜いろっ」
朱鷺恵さんは何のお構いなしにやってくる。
「ちょ、ちょっと!」
動けないでいる俺をみて、きょとんとしている。
「だって、今どうぞって……」
 さも当たり前のように答える。
「そりゃ、俺の後にどうぞって意味ですよ!」
 前を隠しながら何とも間抜けな反論。
「でも、広いんだから一緒に入ろうよ」
 ダメだ、こっちの言い分が通じない。正直参ってしまった。動こうにも、そうじーっと見られちゃ動けない。前を隠そうにも湯船の脇にある手ぬぐいまでは手が届かない。広さを恨めしく思った一瞬だった。

 そんな俺をよそに、朱鷺恵さんが後ろに回ってくる
「折角だから、背中流してあげるね」
「い、いいですよ、さっき自分でやりましたから」
 慌てて反論するが、聞いてくれない。
「背中って自分じゃ届かないところもあるのよ。洗ってあげるからじっとしてね」
 そう言って浴槽からお湯をすくい、背中をスポンジで洗い始めた。
 動かないでね、と言われなくても硬直してしまって全く動けない。今はなんとか、チャンスをうかがって脱出するしかなかった。

「志貴君、背中広いんだね〜」
「そりゃぁ、まぁ……男ですから」
 背中を洗ってくれる感触が気持ちいい。そんな不用心な事を考えながらつい答えてしまう。
「なんか、さっきまで子供だと思ってたけど、やっぱり男の人なんだね」
 そう言われて、ちょっと誇らしげと同時に、ドキッとなる。

 が、そんな悠長な心は、一瞬で破壊された。

 むにゅっと、背中に感触。先程までとは違う、背中全体を押される感じ。
「やっぱり広いなぁ。もうずっと昔からお父さんとも一緒に入ってないし……」
 朱鷺恵さんがぴったりと、俺の背中に体を寄せていた。
 思考が氷りついた。背中に感じる感触は、タオル越しに……胸の感触。その柔らかさに、全てがぶっ飛びそうだった。
「……あ」
 後ろから首に両腕が回る。抱きかかえられるようにして朱鷺恵さんが俺を包み込んでいた。俺の顔の真横に、朱鷺恵さんの顔。こっちを向いているようだが、俺は目も合わせられず、正面を見つめるばかり。
「志貴君、気持ちいい?」
 その声が、俺のすぐ耳元で聞こえる。甘い囁きのように聞こえ、力が抜けていく。
「ふふっ」
 朱鷺恵さんは無邪気に体を背中にこすりつけてくる。当てられた膨らみの動く感触が僅かな神経を辿って、強烈に俺の脳を刺激する。
「ちょっと……」
 声にならない。ぐらりと、押されて前にのめる。その時

「あ……」
 朱鷺恵さんの声色が変わる。驚きの混じった感じ。
「志貴君、興奮してる?」
「あっ……」
 今まで閉じていた足が、気付けば開いていた。そして……
「男の人って、興奮すると大きくなるんだよね」
 と、朱鷺恵さんの視線がその中心……俺のペニスに注がれていた。目を離せない、って感じで見ている気配。両腕が少し強ばっていた。
 呆けてしまった俺も、慌てて足を閉じようとしていた。が、それより早く
「えいっ」

 朱鷺恵さんが俺のペニスを握りしめた。

「あ…」

 どちらからともなく声が漏れた。朱鷺恵さんは少し驚いたような声。俺は…尻尾を捕まれてしまったかのようなか細い声、と言うより、体を走り抜ける未知の感覚に、自然に声が出てしまっていた。

 朱鷺恵さんに触れられた瞬間の記憶がなかった。まるで、フラッシュを目の前で数十個たかれたような感覚だった。今までに何度も、自分でこうやって慰めた事があった。その時だって満足できる感覚ではあったはずだ。それなのに…
 誰か。
 それも、「想像の中で慰めて貰っていた」人が触るだけで、こんなに…

 が、俺の思考はそこで止められた。

 ビクン、と大きく反応し、更に膨れあがるペニスの感覚を手で感じ、頬に感じる朱鷺恵さんの吐息の種類が変わった気がした。少し潤むような声で
「志貴君の、凄い…」
 朱鷺恵さんはそう呟くと、後ろから手探りで俺のペニスをゆっくりと手でなぞり出した。相変わらず背中に押しつけられる胸の感触があるが、そんなものが些細な事にしか思えないほど、手の動きは強烈に俺の感覚をそこに集中させ、同時に麻痺させていた。

 きゅ、しゅ…

 朱鷺恵さんは陰茎の部分に泡だらけの手を巻き付け、大きさを測るように手を上下させていた。慈しむような、優しい感覚。とにかく、キモチイイのかも分からないほど陶酔麻痺の感覚で、体は硬直し抗う事が出来なくなっていた。

「こうなってるんだ…」

 その手がゆっくり下に、俺の陰嚢を指先が撫でる。
 一瞬、ぞくりとした感覚に思わず声が出そうになる。しかし、声を出そうと息を吐いた瞬間に、出してしまいそうだった。鳥肌が立つ感覚に歯を食いしばり、耐える。しかしそれは陰嚢を引き締めさせ、ペニスをビクンと反らす形となって俺に反抗し、逆に朱鷺恵さんに快感の表れを示してしまっていた。

「志貴君、感じてるんだ…」

 朱鷺恵さんの声が耳元で聞こえる。なのに、意識がやられそうな俺には遠くにしか聞こえない。言葉も返せない俺を見て、肯定と取ったのか、ぼうとした視界に映る鏡越しに朱鷺恵さんが可愛く笑って、愛撫を再開する。
「男の人って、こうするんでしょ?」

しゅっ、しゅ

 朱鷺恵さんの細い腕が、俺のペニスをしごきだした。先程までの緩やかな感覚とは違う、的確な上下運動。
「…!?」
 一気に、深みに沈められそうになる。頂上へ上り詰められそうになる。自分では幾回もそうしないととてもこんな感覚にならないのに、朱鷺恵さんに僅か擦られただけで果ててしまう。
 それでも耐えた。奥歯が砕けそうになるほど噛み、残る理性を総動員する。
 尚も朱鷺恵さんは俺自身に刺激を与え続ける。

「志貴君、気持ちいい?」

 朱鷺恵さんは聞いてくる。

 これは拷問だ。
 本当は今すぐにでもぶちまけてしまいたいのに、出してはいけないという僅かな正気が、それを許さない。
 憧れていた女性の愛撫…それは本来ならば夢にまで見た行為なのに、その愛撫で今ここで果ててしまうのは、俺の中のナニカを崩壊させてしまう。

「志貴君、我慢してるの?」
 朱鷺恵さんの手の動きが緩慢になる。漸く悪戯にも飽きて終わるのかと、安堵の息をつけると思った瞬間だった。

「でも、ここはどうなのかな?」
 そう言って、離れると思っていた手の平は、ペニスの先端を優しく撫でた。

「…!」
 その不意打ちは、気を抜いていた俺にはあまりに強烈すぎた。残されていた僅かな理性は、あっけなく崩壊した。

 どくっ、どくん!
 今までずっとため込んでしまっていたものが、堰を切って鉄砲水のように弾け出す。
 陰嚢の奥底からビクンビクンと、白濁が朱鷺恵さんの手を汚す。

「ああっ…」

意識が飛びそうな中、口を出た声。それは、遂に放出してしまった充足と、出してしまった後悔と、特別な存在だった朱鷺恵さんへの懺悔とが入り交じる声だった。

 波のように、俺のペニスはその放出を繰り返しては跳ね、そしてゆっくりとその動きを引いていった。今までに出した事もないような、とてつもない量の精液を放出し尽くして、漸く射精は終わった。

「……」

 朱鷺恵さんはその間、驚いたように俺の放出を受け止めていた。やがてそれが終わると、ゆっくりと手を持ち上げ、自分の手に絡み付く精液に、しばらく見呆けていた。が、やがてそれが何で、どうしてそうなったのかを理解したみたいだった。

「あ…ごめんね…」

 少しだけ声がうわずりながら、でも明るく振る舞って朱鷺恵さんはシャワーに手をかけた。蛇口を捻って湯を出し、自分の手と、俺の股間に浴びせる。
 その間、互いは互いを見ていなかった。共に無言の罪悪感から、その作業は淡々と進んだ。
 俺の中で色々な意識がグルグル回る。それは何なのか、全く収拾のつかないモノ。ただ一つだけ分かる事は、その方向が全て「負」を向いている事だけだった。

 やがて、キュッと蛇口を閉める音。後ろに屈み込んでいた朱鷺恵さんが立ち上がる。
「そ、それじゃ、のぼせたりしないでね」
 そう言い残して、足早に浴室を後にしていった。

 残された俺はどうする事も出来ず、動けずにいた。
 ドウスル……ドウシヨウ……ドウシヨウ……
 そんな答えも出ない考えにもならぬ音句が、自分の中で連呼されるだけだった。

 朱鷺恵さんが脱衣場を出る音が聞こえた後、俺はゆらりと立ち上がった。そのまま浴槽に沈み込む。
 のぼせる頭が、思考を朦朧にする、
 さっきまでの、強烈な感覚。忘れようにも、こびりついてしまった快感。

「ダメだ……」
 なにがだめなのか。どうしてだめなのか。
 熱い湯船でがたがたと震える。ビクビクと小さくなる。
 最悪のシナリオが、待ち受けていた。

 どうする事も出来ず、浴槽を出て、引きこもるようにあてがわれた部屋に戻るしかなかった。

 眠れなかった。
 目を閉じると、あの情景を思い出してしまいそうで。
 あの感覚が、俺に戻ってきそうで。
 夢の中に、出てきそうで。

 いっそのこと、夢でなじって欲しかった。不潔で変態で最低ね、と。でも、体がそれを許さない。びっしょりと汗をかき、それでも布団を被ったままで、俺は時間の感覚を失って震えた。

 夜がコワイ。
 物音一つも立てずに、怯えながら、過ぎ去るのを待ち続けた。

 どれくらいそうしたか、ふと隙間から覗く光を感じる。朝だ。
 時計の針は、6時を指してる。
 逃げてしまおうと、思った。
 俺は朱鷺恵さんに気付かれぬよう、部屋を、家を後にした。