始めは、それが自分を呼ぶ声とは思わなかった。
「やっぱり、志貴君だ」
「あ……」
 気付けば前方、そこにいたのは
「朱鷺恵……さん?」
 ばいばい、と一緒にいた友達に声をかけて、こちらに近付いてきた。
「意外ね、こんなところで会うなんて」
 思わず心臓がどきりとする。さっきまで見えていたはずの周りの景色が、雑踏が、全て消え去ってしまった。
 朱鷺恵さんはふわりと目の前に立ち止まり、俺を見る。
「目立ったわよ、この環境に志貴君のその格好。明らかに場違いだもの」
「目立ち、ますか」
 改めて自分の格好を見渡す。正直くたびれた格好で、こんな姿で朱鷺恵さんの前に出るのは恥ずかしかった。
 逆に朱鷺恵さんは、清楚さを感じさせる服装。ミドルのスカートにブラウス。名前に合ったピンク色の上着が、色の無かった雑踏と対照的に鋭く目に映った。

「そりゃぁ、もう。志貴君は大人のつもりでも、私にしてみればまだまだ子供よ」

 自分が少し年上だからって、いつも俺の事子供扱いするのが朱鷺恵さんの癖かも知れない。
 始めはそう扱われるのが、ちょっと嫌だった。実際に子供だったのだが、同級生よりも大人びている、心の中に少しはあったその思いをあっさりと否定されてしまったから。

 でも、今まで年上の兄姉がいなかったから、そう言う風に言われるのも、何故か新鮮な感じだった。そんな世話焼きの朱鷺恵さんが、だんだんと親しく感じられるようになってきた。やさしい、お姉さんみたいな……

 ……いや

 憧れの存在。

 否定できない、自分の中の揺るがせぬ事実。それは、今でははっきりと自覚できていた。だからこそ、こうして今も早鐘を打っているのだ。

 そんな事を知ってか知らずか、朱鷺恵さんはいつも俺に優しくしてくれる。誰にでもそうするのかも知れないけど、それが何だか心地良く、同時に想いを募らせる結果となっていた。
「もう危ないわね、こんな夜遅くまで。お家の方も心配するわ」
「そうなんですけど……」
 流石に家の事を出されて、反応してしまったらしい。朱鷺恵さんは苦笑いで
「もしかして……また家出?」
 あっさりととんでも無い、そして的確な答えを言った。
「っ!……家出なんて、人聞きが悪いじゃないですか」
 思わず小声になる。周りに聞こえてはマズイ単語を、どうしてこの人は飄々と話してしまうのか。そんな危なさも、一つの魅力なのかも知れないが。
「もう、有馬の家の方に心配かけちゃダメじゃない」
 腰を手に当てて、かるく怒るフリをして、それから
「まぁ、こればっかりは言っても仕方ないのかもね」
 俺の放浪癖を知っているだけに、すぐにあきれ顔になってつぶやいた。
「でも、こんな時間にこんな場所は感心しないわ」
「朱鷺恵さんだって、こんな時間なのにうろついているクセに」
 言われてるばっかりで、つい反論してしまったが
「あら、私は塾の帰りよ。学生たるもの勉強を怠ってはいけないわよ、志貴君?」
 軽くウインクをされる。結局見事にかわされ、諭されて、ぐうの音も出なくなった。
「さて、私は帰るけど、志貴君はどうするの?」
 暗に帰ろうと朱鷺恵さんが促す。が、正直、どうすればいいか路頭に迷っているのだから、返す言葉もなかった。が、何かにすがりたい気持ちと、僅かな望みが、声を出させていた。

「それが……」
「ん?」
「……行くところが、無いんですよね……」

 小声に、悩みの内を吐露してしまった。
「あら、どうして?」
 俺は、今までの経緯を話した。
「……ふうん」
 一通り話し終わった後、黙って聞いていた朱鷺恵さんが頷く。
 僅かな沈黙。
「話してもしょうがなかったですね。何とかします」
 結局、どこか怪しまれずに眠れる場所を探す事になりそうだと、昼間の公園あたりを思い浮かべていた。
 その時
「あ、そうだ。じゃぁ、ウチ来る?」
 朱鷺恵さんは、さも当たり前のように提案してきた。
「えっ?」
「だって、泊まる場所無いんでしょ?だったらウチ来ない?部屋も空いてるし、お金ももちろん取らないわ」
 楽しそうに朱鷺恵さんは話す。
「ちょ、ちょっと?」
 思わぬ向こうからの提案にうろたえてしまう。

 といえば嘘だったかも知れない。
 話していた時点で、期待していたんだ。

「そう言えば、志貴君が泊まりに来てくれた事って無かったよね。いつも遠慮しちゃって、というかお父さんが悪いのかしら?」
 うーんと、記憶を辿る朱鷺恵さん。
 正直朱鷺恵さんの家に行く事は歓迎だった。それしか助かる術がないのも差し置いて、悪くない提案だった。が……
「そうだ……先生いるんでしょ?」
 嫌な人物を思い出し、苦虫を噛み潰したような顔をしてしまう。
「大丈夫。父さん今は学会に出かけているわ」
「学会……?」
 何か、信じられない。どう見てもはぐれ医者っぽいのに、何を考えてるんだろう。
「父さんにも少しは医者だという自負はあるみたいね。まぁ、結局はお手伝いさんと観光がてら、ってのが正しいのかしら」
「成る程」
 ……何となく、分かった気がした。
「で、父さんが連れて行った人以外には休暇を出してあって、実のところ私一人なのよね。ちょうど良かったわ。広い家に女一人なんて心細いし、これから塾も休みで暇してた所だったの」
 なんか、勝手に話が進んでいるけど、悪くない話だと思った。でも、本当に良いのだろうか?ここに来て躊躇してしまう。
「でも……」
 そう、言いかけた時だった。

「そこの君、ちょっといいかい?」
 後ろからの突然の呼びかけに、思わず緊張する。
 見ると、警官がこちらに歩いてきていた。
 マズイ、しかし逃げるわけにもいかなかった。少しでも怪しい仕草を見せたら、補導されてしまうかもしれない。握った手が汗ばむ。
「君、歳はいくつ?何故ここにいるのかい?」
 お決まりの質問を受ける。ハナから怪しまれているのが分かった。
 ここまでか……そう思った瞬間。

 するりと、俺の左腕に誰かの腕が絡み、軽く引きつけられていた。ふわりと、花のような香りが鼻孔をくすぐる。
「どうしたの、志貴君?」
「……朱鷺恵さん?」
 見ると、朱鷺恵さんが俺の腕に抱きついていた。
「君は?」
 警官は訝しげに質問する。
「私の彼氏です。これから帰る所なんですから、邪魔しないでくださいよ〜」
 朱鷺恵さんはさも当たり前のようにさらりと答える。
「なっ!?」
 一瞬、叫びそうになった。が、朱鷺恵さんの方を見ると、目で合図された。なんとか取り繕って「あはは……」と、苦笑いを浮かべる。
「ん……まあ、夜遅いと危険だからな、早めに帰りなさい」
 警官も流石にこれ以上は強く言えないと分かったか、そう言い残して去っていった。

 ほう、と窮地から解放された安堵から一呼吸する。……と腕に絡み付く感触を思い出す。さっきの格好のままにこにこと、朱鷺恵さんが俺の事を見ているのに初めて気が付いた。
 バッ!
 目が合った瞬間、慌てて朱鷺恵さんの腕を引きはがすと、思わず顔が真っ赤になる。
「どうしたの?」
 突然の行動に面食らいながら、朱鷺恵さんが不思議そうに訪ねる。
「いつまで……」
 抱きついてるんですか、と言おうとして、改めて意識してしまい言葉が続かない。さっきまで腕にかかっていた感触が、まだ残っているようだった。
 俺は先程の一言が思い出されていた。

「彼氏です」

 とっさの機転とはいえ、そう言われた事が……
「良かったわね、私たちお似合いのカップルに見えたみたいよ」
「だから……」
「なに?」
「もうちょっと、言い方があったじゃないですか……例えば、弟とか……」
「どうして?」
「だって、俺は……朱鷺恵さんの事、気になる姉さんみたいだな……とか思ってるから……」
 そう言って、俯いてしまう。気が動転していた。自分でも馬鹿正直な答えに、目が合わせられなくなっていた。
「う〜ん、そう言われてもねえ」
 朱鷺恵さんはちょっと困った風にして
「私は、彼氏が良かったから」
「……!?」
 改めてそう言われて、心臓が止まりそうになる。
「お似合いだし、いいでしょ?」
 そう言われても、返す言葉を探すアタマが働かない。繰り返し「彼氏」という言葉が駆けめぐっていて、目眩に変わりそうだった。
「じゃ、改めて。志貴君、ウチ来る?」
 朱鷺恵さんは笑顔で聞いてくる。さっきで貸しを作ってしまった以上、ここで無下に断るワケにはいかなくなってしまった。
「……はい」
「やった。じゃ、決まりね」
 嬉しそうに朱鷺恵さんが俺の手を引く。さっきみたいに腕を絡ませてこようとしたので、慌てて先に歩き出した。
「……早く行きましょう。こんな所は物騒です」
これ以上顔を見られたくなかったから、朱鷺恵さんを先導するようにする。幸い家の方向は分かっているから、このまま顔を見られずに済みそうだ。
「そうね。帰りましょう」
 後ろを振り返らないように足音を聞きながら、俺は時南医院に向かって歩き出していた。

 まさか、こんな事になるなんて。正直急な展開に自分が付いていけなかった。
 でも……
 期待していた、のかも知れない。
 何を?
 ワカラナイ

 それは、わからない振りをしているだけだったのかも知れない。雑念を振り解き、歩を進めるしか、今の自分を保つ術はないように思われた。