あの夏、一番静かな夜。



「まずいなぁ…」
 ビルに光る時計を見あげて呟く。もうすぐ、夜の十時を示そうとしている。
見上げた顔を下ろし、また歩き出す。

街の大通り。

 金曜日の夜という事もあり、街には大勢の人がいる。その目的は様々。家路を急ぐ者、一日の疲れを癒している者、程良く出来上がり、千鳥足で腕を組み歩く者。
そんな中を俺は、何とも肩身の狭い思いで歩いていた。
人が沢山いるところは好きではないのだが、この時間では帰ってこういう場所の方が安全だった。何しろ見た目が見た目だから、怪しまれたらそれこそ一巻のおしまいだ。

Tシャツにデニム。そして背中にはディパック一つ。

 いくら夏だからとはいえ、明らかに「家出少年です」と語るにふさわしい格好だと自覚している。しかし、それは現実だから仕方なかった。正確には「家に居づらいから出ている」訳だが、そんな事お上は分かっちゃくれない。仮に補導されるような事があったら、有馬の家に面目が立たない。きっと遠野の家からも何か言われるに違いない。それは避けなければならなかった。

「もっとマシな格好して出てくればよかったなぁ…」
思わず自分に愚痴る。しかし普段は学生である身、たいした服は持っていない。元々ファッションに気を遣うわけでもないし、そんな興味もない。
更に言えば、文臣さんや啓子さんに「服が欲しい」なんて言える立場じゃないから、与えられるだけで十分と思い、学生服とこんな軽装しか無かった。

 それは背中に背負うディパックにも同じ事が言える。持っている鞄は学生鞄とこれだけ。
必要な物はこれに入る分だけ入れればいい。今回だってそうだ、中には少々の着替えと洗面道具くらい。そしてポケットには、がま口に僅かばかりのお金。
この場で失敗だと思ったのは、面倒だからと学生鞄に入れっぱなしにしておいた学生証。今、身分を証明できる物が無いから、どう言い訳もできなかった。

「どうしようか…」
そうひとりごちるが、正直良策など思いつかず、既に万策つきているのだ。本来ならば有彦の家に厄介になっている時間だったのだが、今回ばかりは状況が違っていた。

 あれは今朝の出来事だった。いつも通り乾家でのんびりと目覚め俺は、有彦の皮肉も余裕で受け流し、のんびりと遅めの朝食を取っていた。
そこへ、イチゴさん…一子さんが帰ってきたのだった。
別にその事は何の問題もない。どうやら俺はイチゴさんに気に入られているらしく、むしろ歓迎されているくらいだった。有彦に言わせれば「手土産も無しにやってくる辺り、もはや常人じゃないよな」とか言われているが、わざわざ行く度に菓子折を用意する程、俺もできていないし、持ち合わせもない。

 問題は、イチゴさんの虫の居場所が少し悪い事にあった。理由は…まぁ、女性だから周期的なものには逆らえないのだろうと、勝手に邪推しておく事にした。帰って来るや、靴の置き場所なんかの、ほんの些細な事で有彦に当たってくる。有彦もそれにつっけんどんに返すから、余計イチゴさんの気分を害す結果となる。
有彦とは望んでもいないのに長いつきあいだから、こうなれば手が付けられないのが分かっている。二人とも強情だからいがみ合う。空気が不穏な方に動けば、自然に俺の居場所はなくなるわけだ。さすがに他人の喧嘩を間近にしてお茶をすするほど、俺は肝はすわっていない。
そうと分かれば行動は早いほうが良い。俺はそそくさと朝食の片付けをし、二階に上がって荷物をまとめ、未だダイニングで言い合う二人を尻目に乾家を脱出してきたのだった。

 さて、家を出たはいいが、俺はその先の行動に関する知識を持ち合わせていなかった。今日だって何事もなければ、有彦と一日中ゲームしたり、カードをしたりするだけだったはずだから。とにかく、有馬の家にいないで時間をつぶせる事が重要で、その意味にはあまり興味はなかった。
「…ま、いいか」
深く考えないのが俺の自慢だったから、とりあえず足の向くままに公園を目指していた。

 夏休みも後半に突入したこの時期、真夏日が何日連続で記録されただろうか。公園にも涼を求める人々が既に沢山いた。幸いな事に木陰になるベンチを見つけ、座り込む。そのまま、視線の先にある噴水を眺め込む。水が吹き上がり、そして滴となり散る姿を際限なく眺めるだけで、時間が過ぎていくのが心地よかった。単調な動きではない、様々な要素の絡み合った動きは見飽きる事のないのだが、そうしているうちについ眠くなり、気付いたら時計は午後を回っていた。

 このままここで一日時を過ごすのも良かったが、午後になって太陽はその差す光も強くなり、無惨にもベンチから木陰を剥ぎ取ろうと動いていた。更に何もしなくても人間は腹が減る。それは俺の胃も同様で、やけに正直だった。こうなったらもうここにいる目的も無い。
俺はひとつのびをするとゆっくりとベンチから立ち上がり、空腹を満たすために公園を後にした。

 コンビニでパンとジュースだけの食事を取って、また歩き出す。流石に歩くと汗も噴き出してくる。たまらず俺はそばのビルに入り込んだ。
ドアをくぐると、急激な温度低下。そして、ふっと気が遠くなる感覚。前に出した右足が地に着かないまま、ゆっくりと世界が傾いていきそうになる。飛んでしまう前に、意識をなんとか保ち、ぐっと右足を強く踏み込む。

ダン!と、静かなビル内に響く足音。周りの訝しげな目があるが、今は自分の意識に集中する事が大切だった。
「だから人工的な涼しさは嫌なんだよな…」
状態の急激な変化は体調にも変化を来す。それが原因で貧血になる事もしばしばだった。
壁により掛かり、そう呟きながら目眩が収まるのを待ち、そうして体が慣れた頃に動き出した。

 結局、そうしているうちに時は過ぎ、今こうして夜の繁華街を当てもなく彷徨っていたのである。
帰る場所がないのなら、最悪有馬の家に戻ればいいとは思っている。しかし、本当に八方塞がりにならないとその手段を使う気にはなれず、今もこうして僅かな可能性―例えば有彦が迎えに来るとか…そんな事は絶対にないだろうが―を求めるようにしていた。

しかしそれも、時間的にも体力的にも限界に近付いていた。
「…仕方ないかな」
そう思い、ディパックをかけ直して有馬の家のある方に向かおうとした時、

「…志貴君?」

その声は、僅かな可能性の、更に原子ほどの大きさだった人のものだった。