「志貴さまのおっしゃる通りに致します」
「……嘘」
「本当です」
ちょっぴり憤慨しているのか、翡翠の目がきつくなる。
「それとも、志貴さまはお戯れであんな事を仰られたのですか?」
「違う、違う、本気で頼んだんだ。でも翡翠嫌がっていたろ。本気で嫌なら、
無理しなくていいんだぞ。翡翠にそんな我慢させてまでしたくないから」
あわあわと飾り無く本心を吐露する。
それを聞いて翡翠の目が少しだけ和む。
「主人の意に沿うのがメイドの務めです。それに志貴さまが喜んで下さるので
あれば、わたしも嬉しいです」
「うん、ありがとう。楽しみにしてるよ」
はい、と答えてからちょっと恥かしそうに、翡翠は顔を下に向けてしまう。
ぴしっとメイドとしての自分を律している翡翠も良いけど、こういう翡翠も
またイイなあ。
良いとイイって微妙に違うんだ。
翡翠の姿を眺めてそんな事を思った。
微妙な動きをしている翡翠の細い指と、胸のリボンが妙に目についた。
……ってなやり取りがあった早朝と同じく、ベッドの上にいる。
と言ってもまだ寝る時間には早すぎる。日がまだ落ちていないくらいだ。
だから寝る為でなく、寝台として以外の用途で使うべく、翡翠の来訪を待っ
ている。
もうすぐだろう。
琥珀さんが買い物に出掛けるのはさっき窓から見えたから。
秋葉は夕方までいない。
緊張していた。
翡翠を待つ時はいつも緊張する。
もちろん秋葉が来る時も、何度もお馴染みの琥珀さんを迎える時も、あまり
平静ではないのだけど、翡翠は特別だ。
琥珀さんに関してはまあ、誰にはばかる事もない……、と思う。
秋葉に関しては、正直心理的な抵抗は少ない。
背徳感はあるし、琥珀さんにも秋葉に対しても悪い事をしているという負の
感情は生じるが、最近では薄くなっている。
一つには秋葉の恋慕の念を、知っていたから。
俺が先に琥珀さんに惹かれていなければ、秋葉の想いを受け入れていたかも
しれない。そう思う事は心理的抵抗を小さくしてくれた。
秋葉と幸せな結末を迎えず、それどころか命がけで拒み、兄妹で本気で殺し
あう壮絶な事態に到ったけれども、だからこそ全てが終わった今は、起こりえ
なかった可能性を不憫に思えた。
それに、あの時に敗れたが故に、秋葉の中の何かが折れていた。
今も口うるさい妹として、遠野の当主として俺と接するが、二人で抱き合う
時だけは、これが秋葉かと疑いたくなるほど、弱く儚げで従順な、泣き虫の甘
えん坊に変わる。
そうした姿の時に秋葉の内の澱が全て払われ、癒されるのかもしれない。
ならば、と思う。
言い訳かもしれないけれど、それで秋葉が満足するのであれば、秋葉を抱く
事で秋葉が壊れずにいられるのであれば、良いのではないかと。
でも翡翠は。
翡翠はどうなのだろう。
琥珀さんは、翡翠も俺への想いをずっと抱いていたのだという。
だから、秋葉だけでなく翡翠の想いもこういう形でかなえて欲しいと、俺に
懇願した。
結局俺はそれを拒否し切れなかった。
しかし翡翠は姉と結ばれた男に抱かれて、本当に後悔していないのだろうか。
翡翠が想ってくれていた事に、言われるまで気づかなかったというのに。
秋葉を抱いて数日後、部屋にやって来た翡翠。
あの時、本当に本心から望んでいたのだろうか。
今も体だけは数を重ねて少しは馴染んできたけれど、翡翠の心はどうなのだ
ろうか。
琥珀さんはそれで良かったんですって言ってくれたけど……。
トン、トン……。
控えめなノック。
返事はしない。
お互いに他に誰もいないのはわかっている。
カチャリという音がして、扉が開いた。
翡翠が部屋に入って来た。
「お待たせしました」
「……うん」
喉が渇いていた。
実際の体の渇きではなく、緊張ゆえの心に感じる喉の渇き。
目の前に翡翠がいる。
いつも通りの、メイド服姿の翡翠が。
朝起こしに来てくれて、いつも懸命に仕事をして、優しく俺の世話をやいて
くれる翡翠の、いつもの当たり前の姿。
俺付きのメイドである翡翠の仕事姿。
その姿で来て欲しいと、今日頼んでいた。
ベッドの端に座り直すと、翡翠もすぐ横に腰を下ろした。
ドキドキとする。
いつもは緊張しつつも、翡翠をリードし落ち着かせる側なのに、今は自分に
落ち着け落ち着けと言い聞かせるので精いっぱいだった。
一方の翡翠は、取り合えず落ち着いているように見える。
昼間で今しがた迄働いていた姿だからかもしれない。
内心はともかく、ピタリとはまった姿に見える。
「志貴さま?」
無言のままの俺を変に思ったのだろう。
こっちを見て、不思議そうな顔をしている。
「ごめん。
自分から頼んでおいて、いざ翡翠を目の前にしたら凄く動転してるんだ」
「そうなのですか?」
よくわからないといった口調。
そうだよな、自分でもわからないんだから。
翡翠と見つめ合う。
やっぱり違うな。
夜に来て貰って抱く時の翡翠とは。
今の翡翠は、日常のいつもの翡翠だ。
翡翠とこのベッドの上で、何度も抱き合った。
痛みに涙を浮かべさせてしまった初めての時から、両手の指では足りないほ
ど何度も。
後ろめたさと快楽の間で、翡翠を一糸纏わぬ姿にしたり、下着姿のままで始
めたり、服を完全に脱ぎきれない状態で手を伸ばしたり。
でも、そうした中で、メイド服姿の翡翠を抱いたのは最初の何回かだけ。
その後で部屋を訪ねて来た時、翡翠はいつもパジャマ姿になっている。それ
は凄く可愛いくて、とても似合ってはいる。
夜の格好としては決しておかしくないし、むしろ自然かもしれない。
でも、それは俺に何か違和感を覚えさせた。
なんでいつものメイド服姿でないのだろうと。
考えても結論は出なかった。
そして説明しがたい不満が僅かに残った。
翡翠がいつもの姿であるメイド服を脱ぎ捨ててしまっている事に。
メイド服の、普段の翡翠を抱けない事に。
翡翠が心を許してくれていないのではないかとすら思った。
おかしな事だとは自覚している。
翡翠を抱くことに後ろめたさや抵抗を感じながら、そんなメイド服姿の翡翠
を抱きたいとこだわっているなんて。
普段の姿でないと文句を持つなんて。
頑なにメイド服しか着ないのであればともかく、私的な姿を見せてくれてい
るのに、翡翠の心に疑問を持つなんて。
でも、堪らず翡翠にお願いをした。
いつもの姿の翡翠を、メイド服姿の翡翠を抱きたいと。
翡翠は難色を示したが、結局は承諾してくれた。
しかし、いざこうして実現してみると……。
「志貴さまがお嫌でしたら、着替えて参ります」
「いい、着替えなくていい。そのままがいいんだ」
「は、はい」
立ち上がりかけた翡翠を慌てて押し留める。
再び翡翠はちょこんと隣に座り、次の指示を待つ。
でも妙に何も出来ない。
このままもやもやとしたものを胸に抱いたままでは、翡翠の体に手を伸ばし
たくない。
でも、何を言ったらいいのか。
「ごめんね、翡翠」
「あの、わたし何か間違った事を……?」
二人の声がぶつかった。
一瞬、二人で黙る。
「ええとさ、翡翠はその服で来て、その……、するの嫌なんだよね?」
「嫌ではありませんが」
「嘘」
「本当です」
あれ、少し頭が混乱する。
翡翠はいたって真面目に答えていた。
「だって、頼んだ時に嫌がっていたし、それにいつも夜に来る時に、着替えて
いるじゃないか」
何だか不満口調になっているな、少し。
翡翠はちょっと不思議そうに首をかしげた。
「志貴さまは、わたしがこの姿で参るのが、お嫌ではないのですか?」
「全然。翡翠はなんでそんな事思ってたの?」
「最初の何回か、とてもお辛そうな顔をなさってわたしの事を見ていましたか
ら。それで姉さんに相談したら、メイドのわたしを抱くのは抵抗あるんだろう
って言われて。そして何か普通の女の子の格好して志貴さまの処に行った方が
良いだろうって一緒に考えてくれたんです」
「そうか……」
琥珀さんが気を遣ってくれたのか。
翡翠もそんなに俺の事に気を回してくれていたなんて。
翡翠と横に並んで、真正面から向かい合っていない事をありがたく思いなが
ら、次の言葉を口にした。
「俺、翡翠に少し意地悪してたんだ。どうするか試してみようって。
翡翠がメイド服のままで俺の処に来るのは抵抗あるって思っていて、それで
も要求してたんだよ。
翡翠が来てくれる時は普段と違う翡翠になっているから、あえてメイド服を
着ている翡翠を、それも夜じゃなくて昼間に誘ったら、どうするかなって。そ
んな事を思ってさ。ごめん……」
「わたしは志貴さまのメイドですから、命じていただけば……」
「それはダメなんだ。凄くわがままで自分でも呆れるけど、翡翠が望んで……、
俺の事少しでも好きだから、してるんじゃなければ嫌なんだ。
俺には琥珀さんがいるのに。
本当に、翡翠にも琥珀さんにも酷い事を言ってるな」
ああ、言ってしまった。
でも、そこだったんだよな、翡翠を抱いていつも思っていたのは。
翡翠が本当に抱かれたいと思っているのか気になっていたんだ。
「ひとつお聞きしていいですか?」
「うん、何?」
「わたしは、志貴さまに、ほんの少しでも、好いて頂いているのでしょうか?」
「琥珀さんに言われたのもあるけど、好きじゃなければこんな事しないよ」
何か言いかけて、ちょっと躊躇うように翡翠は言葉を止める。
顔を翡翠に向ける。
翡翠もこちらを見て俺と視線を合わせ、口を開いた。
「わたしは、志貴さまに抱いていただいて嬉しいです」
「え」
「どんな形であれ、志貴さまに求めていただいて嬉しかったです。
でも、志貴さまは辛そうな顔をされていて、ずっと申し訳なく思っていまし
た。お嫌なのに、わたしの事を抱いているのだなって思っていました」
翡翠がはっきりと言う。
嘘ではなく、本当の言葉。
なんだ二人して似たような事を相手に対し思っていたのか。
自分で自分の影に怯えていたというか、後ろめたさから勝手に見なくてもい
いものを見ていたというか。
「じゃあ、琥珀さんが言ったのは本当だったんだ」
「姉さん?」
「翡翠が俺のこと望んでいるって。俺が翡翠のこと好きなら、翡翠の想いをか
なえて欲しいって」
「その通りです」
翡翠は頷く。
そうか。
よかった。
なんだかほっとした。
翡翠が嫌がっていない。
俺とこうするのを喜ぶ気持ちを持ってくれている。
「俺は不安だったんだよ。翡翠が本当に望んでいてくれているのか。最初はそ
うだったかもしれないけど、その後も何度も抱かれるのは、嫌だったり義務だ
と思って仕方なくしているのじゃないかって思ったりもして」
「そんな事はありません。本当です」
懸命に翡翠は言う。
表情からもその必死さがわかる。
「そうか、安心した」
「ときどきで結構です。志貴さまのお情けを頂ければ、私は幸せです」
「わかったよ、翡翠」
「でも、志貴さま、本当の事を言うと、この姿でというのに抵抗あるのは事実
です。わたしはメイドとしてこの家に置いておいて頂いておりますし、仕事に
対しても僅かばかりの誇りも持っております」
「それはわかる。翡翠は本当に良くやってくれているから」
「その姿で志貴さまに可愛がって頂くのは嬉しいのですが、自分の仕事を汚し
ているような気も少しだけ……」
ああ、そういう事もあるんだな。
どんな表情をしたのか、翡翠が慌ててフォローを入れる。
「あの、嫌と言う訳ではなくて、志貴さまが望まれるなら。それにあくまで自
分の心がけの問題ですし、それに……」
「わかった。翡翠に負担をかけない程度にお願いするよ……」
「はい」
よし、すっきりした。
と、翡翠がすっきりしない顔でこちらを見ている。
「あの、志貴さま、今日はお話の為だけに呼ばれたのでしょうか?」
「え?」
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