二年生の生活にも慣れた頃、おれの学校での行動は明らかに変わっていった。
 意識してしまうと、何かと気になってしまうもので、かえってギクシャクしたりしてうまく行かなくなる…そんなパターンにきっちりはまってしまい、おれも由利子さんさんとロクに会話も成立しないようになってしまった。
 それでも、彼女の顔だけは少しでも見たいので、おれはちょくちょく用もないのに亮介の所に顔を出した。美月さんにも何かと用をつけて話に行ったりもした。二人とも、そのうち何となく俺の気持ちに気付いたらしく、何かと気を使ってくれるようになった。
 それでも由利子さんには、うまくコミュニケーションが取れないでいた。

 そんなある日、何となく朝早く目が覚めてしまったおれは、いつもより三〇分も早く家を出て、学校に向かった。
 早起きは三文の特なんて諺は信じてないクチだったけど、何かに期待するように、ほとんど誰もいない、それでもいつもと同じ道を歩いていた。そんな時、おれに幸運とも試練とも言い難い事が起こった。

「優くーん。」

後ろから呼ぶ声に、何の気なく振り返ったおれは、その瞬間、おれのことを追って走ってくる姿を見て凍り付いてしまった。

「はあ…、やっぱり優君だ、よかった。」
「由利子さん…」

そう、由利子さんだった。心臓が早鐘を打ち始めた。

「今日は、早いんだね。いつもは三〇分くらい遅いよね。今日は何かあるの?」
「いや…、ただ、早く起きただけだから…」

彼女の顔をまともに見ることさえもできなかった。見ただけで、心臓の動きが倍増してしまいそうだった。視線のやり場に困って、きょろきょろしてるおれを見て、彼女は優しく微笑むと、

「変な優君。さあ、一緒に行こ。」

と先に歩き出した。…おれはこの笑顔にやられてしまうかも知れなかった。とにかく、すぐに彼女に並んだ。
 言いたいことは、確かに山ほどあったはずだった。そんな事を考えたりした時もあったくらいだったから。でも、彼女の横にこうしていると、頭をハンマーで叩かれたように、全くその言葉が浮かんでこなかった。そのくせ、思いつく事はくだらないことばかりで、本当に自分に対してもどかしくなった。

「由利子さんはいつも、この時間なんだ。」
「うん、そうだよ。」

…話が続かなかった。どうしてもダメだった。空回りして、全く情けなかった。横にいるだけで、このドキドキが伝わってしまいそうなのも、状況に一役買った。それが怖かった。
 なんだか、あっと言う間に感じてしまった。見れば、もうすぐ学校だ。

「今日の優君ホントおかしいね。」

由利子さんが笑いかけるだけで、もうどうしようもなかった。

「じゃあね優君、後でまた会おうね。」

彼女に手を振られて、振り返すのが精一杯だった。
 その日、おれは一日中ぼーっとしてしまっていた。でも、何故か心は幸せだった。
 次の日から、おれは起きる時間を三〇分早めた。もちろん、由利子さんと一緒に登校するためだった。最初は一方的にこっちのせいで会話が成立していなかったが、少しずつ慣れていった結果、彼女と冗談を交わしながら、楽しく会話をして歩けるようになった。たったそれだけかもしれないと思うかも知れないけど、おれはそれだけで本当に幸せだった。自分でも、内側から光ってるって言うか、自分でも変わったって感じがした。
 いろんな会話をしてゆく中で、新たに彼女について知ったりすることもあり、そんな事が一つ一つ積み重なっていくうちに、前にも増して彼女のことが好きになってしまった。告白をしよう…そんな事も考えるようにもなった。
 彼女のことを考えるうちに、しかし、一方ではある不安も生まれていた。それが形になる事件は、六月も半ばを過ぎる頃に起こった。

その日、放課後教室の掃除をしていたら、クラスメイトの女子の一人が僕のところに寄ってきて、

「ねえ優君、ちょっといい?」

と言ってきた。

「いいけど、何?」

特に何もなかったので、そう答えると、彼女はとんでもないようなことを聞いてきた。

「あのさ、優君と由利子さんって、付き合ってるの?」

まさに「寝耳に水」がぴったりのこの質問に、おれはうろたえてしまった。こういう時、ヒトはすぐに否定をしてしまうものだ。

「そっ、そんなことないよ!」

この場合は正しいのだが、彼女はそうはとらえなかったらしかっ

「そんな事、誰から聞いたの?」

おれが平静を装って訪ねると、彼女は、

「私の友達がいつも二人が一緒にいるって言うから、もしか したらそうなのかなって…、でもどうやら本当みたい   ね。」

そんな風にあっけらかんと答えた。

「違うよ。彼女とは友達だし、ただ学校に来る道が一緒なだ けで、最近よく会うだけだよ。勘違いしないで欲しい   な。」

そんな風におれが弁解すると、

「ふうん、それならそれでいいけど…じゃ、それだけだか  ら。」

そう言って彼女は、おれの方をニヤニヤ見ながらどこかへ行ってしっまった。
 彼女がいなくなった後、おれは複雑な気持ちになっていた。
 他人には付き合っているように見えるんだ…そう考えると、胸がドキドキしてしまった。そう見られてるって事は、由利子さんもそう言う風に感じてくれているのかな…と、嬉しくなってしまった。
 しかし反対に、というかその事に関しての疑問というか不安が生まれた。
 果たして、彼女はどう思っているのか…
 おれはいいけど、彼女はおれと一緒にいる事を迷惑だと思っているんじゃないだろうか。そうだとしたら、こんな噂、彼女にとっては嫌に違いない。もしかしてこの気持ちは、おれの一方的なものだけに過ぎないんじゃないか…
 一度そんな風に考え出したら、もう止まらなかった。考えは、どんどん悪い方に進んでしまった。そしておれは、ある、とんでもない結論に達してしまった。

 その日の帰り。もしも今度、由利子さんに会えたらこの事を伝えようと、心に決めていた時、幸か不幸か、その張本人と、校門の前でばったり出くわした。

「あっ、優君…、今帰るところなんだ。」

彼女はおれの顔を見ると、とても嬉しそうに微笑んでそう言った。これから伝えることを考えると、少しつらかったが、

「よかったら、一緒に帰ってくれないかな?」

とおれは誘ってみた。彼女は顔を赤くしながら頷いて、

「うん、いいよ、ちょうど私もこれから帰るところだったか ら…それに、優君に話したいこともあるし…」

そんな事を言ってきた。俺達は並んで校門を出た。
 しばらくは、いつものようにただいろいろな話をして歩いていた。俺はなかなか話すきっかけがつかめず、困ってしまったが、ついに由利子さんの家の前まで来てしまった。
 すると彼女は、二,三歩先に走り出たと思うと、こっちを振り向いて、

「こうして話していると、私たちって、いつも一緒にいるよ ね。」

そんな事を言ってきた。どうしてこんな急にこんな事を言うか分からなかったが、

「…私ね、友達に、『優君といつも一緒にいるんだね』って いわれたの。」

そう言われて気付いた。彼女も同じ様なことを言われていたんだ。それなら話が早いと思ってしまった。

「あのさ、そのことなんだけどさ…」

おれはやっと話が切り出せたことに内心安心しながら、彼女に向かって言った。

「今日、クラスの女子に、おれと由利子さんがつきあってい るなんて噂を聞かされたんだ。」

彼女は少し驚いていた。多分、さっきのおれと同じ理由だろう。

「ゴメン、おれのせいで変な噂が流れちゃって。」

 そんな事を言うと、彼女は、

「えっ…。…そんな事ないよ。…だって、私…」

彼女は何か続けようとしたが、おれははっきりと言った方がいいと思って、彼女の次の言葉を待たないで、そして彼女の方を見ないで言った。

「だから決めたんだ、しばらく会わない方がいいって。」
「えっ?」
「学校に一緒に行くのも、しばらくやめて、噂が消えるまで、 別々に登校しよう。あんな噂、すぐになくなるから、もう 由利子さんに迷惑はあまりかからないと思う。」
「そんな…」

おれは言ってしまってから、心に引っかかる感じたが、それを無理矢理もみ消すようにしていた。

「…そんな事…」
「えっ?」

彼女が何か言ったので、そちらを振り向いたら、彼女はおれの方を見て、いつになく真剣な顔つきをしていた。

「噂なんて、気にしなくたっていいじゃない!」

初めて彼女があげる大きな声に、おれは驚いてしまった。まさかこんな反応が返ってくるとは思ってもみなかった。

「噂なんて…関係ないよ。そんなの関係ないよ。だって…」

俺は迷いを振り切るように、言葉を遮って言った。

「勝手なこと言ってゴメン、でも、今はそうした方がいい。 この方が二人のためになる。」

少し冷たい言い方になってしまった、そう思っていた。
 彼女は、呆然と今の言葉を聞いていた。そして、その瞳から、一筋の涙がこぼれてきた。
 彼女は、泣いていた。
 声も出さず、溢れてくる涙も拭おうともせず、それでもはっきりと、彼女は泣いていた。あの時以来みる彼女の涙、しかしあの時とは明らかに違う涙…。

「ねえ…どうして…どうして!本当の気持ちを教えてよ。」

悲しい笑顔をおれに向けて、

「私、優君の事、見えないよ…。分からないよ…!」

最後は掠れるように、消えていってしまいそうな声だった。

「…ゴメン。」

 おれは、いたたまれなくなって、その場から逃げ出すようにして帰ってきてしまった。彼女のすすり泣く声がしても、振り返らなかった。胸が痛かった。やりきれなかった。でも、これで良かったんだと自分に言い聞かせて、おれは帰った。

 それからというもの、由利子さんとはなるべく会わないように、避けるようにして生活した。それでも相変わらず、おれは亮介や美月さんには会いに行った。理由も分からない、そんな自分に少し自嘲気味にもなりながら、毎日は、ただ、意味もなく過ぎていった。まるで、光を失ったようだった。

 

 …あれから、どれくらいか経った。一学期の期末試験も終わり、放課後、おれは亮介のところへ向かった。
教室で亮介を見つけたおれは歩み寄ると、

「亮介、一緒に帰らないか?」

と誘った。亮介は、

「ああ、いいぜ。」

と答え、続けて、

「ただ、ちょっと、おれに付き合ってくれるか?」

と聞いてきた。

「ああ。」

にべもなく返事するおれを見て、亮介は、

「…まあいいか、行こうぜ。」

とおれを促した。
 教室を出るとき、偶然廊下から来た由利子さんと美月さんに会った。おれはそっけないふりをして、

「美月さん、じゃあね、亮介借りてくよ。」

と言った。美月さんは、

「鷲尾君…!」

と、おれに何か言いかけたが、亮介と目が合い、亮介が何か目配せしたら、納得したようで、

「じゃあね。」

とだけ言ってきた。

 亮介に連れられ、おれは近くの河原にやってきた。

「亮介、こんな所に何あるんだ?」

おれが悪態をついたら、亮介はこっちを振り向いた。いつになく真剣な表情に、何か大切な話でもあると、おれは本能的に悟った。

「優、お前、最近琴野さんと一緒じゃないな。彼女に、告白 とかしないのか?」

おれのことに関することだとは少し驚いたが、別に気にしないで答えた。

「いや、今はあまり会わないようにしてるんだ。」

おれはことのいきさつをすべて話した。亮介だから、何一つ隠さずに、彼女のことが好きだったことも話した。

「…何度も告白しようって思った。でも言えなかった。自分 には、不釣り合いだって思ったんだ。だから、しばらく会 わなければ、彼女のことを好きだって言う気持ちも、少し ずつ消えていくだろうって思ったんだ。だから…。」
「だから、一方的に別れたとでも言うのか?」
「…まあ、そう言うことになるな。」

こんな事を話すのはつらかった。でも、これで少しでも痛みが和らぐものだと思ってた。

「おまえはそんなのでいいのか?」
「ああ、これはおれと由利子さんとの話だし、張本人が全く気にしてないんだから。特におれは大丈夫だよ。」
「優、どうしてお前はそんな自分の殻に閉じこもるんだ   よ。」

今まで何も反論なんてしなかった亮介が、突然こんな事を言い出すのに、おれは驚いた。亮介ならきっと分かってくれるものだと思ってたからだ。

「だから言ったじゃないか、おれ一人でこうすればいいこと だし、おれの気持ちだ、自然に由利子さんの事が好きだっ た気持ちは消えていくと思ったからだ。」
「…でも本当は消えないんだろ。忘れられないんだろ。」

そう亮介に言われて、おれは核心を突かれたような気分になった。

「…知ってるよ。お前がおれと美月のところに来てるとき、 いつだって琴野さんの事見てたんだろ。」

そう言われて、自分の気持ちに嘘をついていることを、自覚してしまった。
 今までの自分は全て演技、殻に籠もった自分で満足していた。それには理由があったからだ。

「忘れられるわけが無いじゃないか!」

おれは今までの自分を吐き出すように、そう叫んでいた。

「こんなに人を好きになったのなんて生まれて初めてだった。 初めてこんな気持ちになったんだ!…でも、この想いが片 思いだったらって思うと、おれのことを友達としてみてい た由利子さんの心を、傷付けることになる…。彼女を傷付 けたくなかったんだ!」
「…結局、自分が傷つくのが怖かった。そうなんだろう?」

おれは亮介の言葉に頷くしかなかった。全く亮介の言う通りだった。おれは、自分が傷つくことを他人にすり替え、それを恐れている、ただの臆病者に過ぎなかったのだ。でもそうしないと、おかしくなってしまいそうだったんだ。

「お前は知らないだろうけど、琴野さん、おれや美月にお前 のことを話す時、いつも嬉しそうだった、ちょうどお前が 俺達に由利子さんのことを話すようにな。」

おれは少なからずショックを受けた。

「お前のことを、本当に大切に想っている人なんだって、俺 は思ったよ。」

もう、何も言えなかった。

「忘れるなよ、お前は一人だけじゃない。お前のことを、本 当に必要としている人がいるって事を。それなのに、自分 だけの世界に閉じこもってちゃだめだぞ。」

最後の方は、亮介はおれに諭すように言ってくれた。
 亮介の心遣いが、本当に嬉しかった。こみ上げてくるものがあったが、男泣きはするもんじゃないと思って、それをこらえた。

「ありがとう…亮介。わかったよ、由利子さんに…彼女に本 当の気持ちを伝えてくる。」
「ああ。」

亮介は頷いてくれるだけだった。

「優、彼女の気持ちも考えてやれよ。」
「ああ。亮介、すまなかった。」

 おれは亮介にそれだけ言うと、走り出した。

 由利子さんに会わなくちゃ、そして、自分の気持ちを伝える…。

 彼女が何処にいるのか、そんなものは見当がつかなかった。もう既に家に帰ってしまったのかも知れない。でも、さっき美月さんと一緒にいたはずだ、学校に戻れば何か分かるかも知れない…。そう思っておれは、とにかく学校へ急いだ。

 学校の校門の前に、美月さんが立っていた。おれは彼女に駆け寄ると、

「美月さん!由利子さんを、彼女を知らない?」

そう尋ねた。彼女は驚いていたが、意味を介したらしく、

「その顔じゃ、やっと気付いたみたいね。」

彼女は微笑んでそう言った後答えた。

「由利子ちゃんなら、さっき私と別れて、どこかへ行った  よ。」
「何処に行ったかまでは…?」
「そこまでは、私からは言えない。後は自分で彼女を見つけ てあげて。」

そんな事を言われて、一瞬よく分からなかった。

「どんな約束をしたか分からないけど、当事者同士なら分か るでしょ。」
「ありがとう…。」

曖昧なままだが、少しだけ分かった気がして、おれは走りだそうとした。その時、美月さんがおれを呼び止めた。

「鷲尾君。」
「何?」
「亮介はね、昔、私に対して同じ様なことをしたの。だから、 黙ってられなかったのかも知れない。…お節介と思ったか も知れないけど、亮介は鷲尾君に同じ失敗をして欲しくな かったから、その優しさだと思ってあげて。」

…意外だった。亮介もおれみたいに美月さんのことで悩んでいたなんて…。でも、改めて、あいつの優しさにふれた気がした。

「分かった。それじゃあ行くね。」
「鷲尾君、頑張ってね。」

美月さんは優しくおれを送り出してくれた。

 

 それから何時間、おれは思いつく場所をさしあたり探した。彼女は何処にも見つからなかった。おれはそろそろ疲れ、町の中を歩いていた。
 そんな時、ふと美月さんの言葉が甦った。

「どんな約束をしたか分からないけど、当事者同士なら分か るでしょ。」

約束…、そうだ、約束だ。彼女との約束がなかったか、おれは必死に思い出そうとした。そして、由利子さんの一言を思い出した。

「…じゃあ、七月七日ってのはどう?七夕だし、天の川なん て見たら綺麗だと思うから…。」

そう、今日は七月七日…、忘れているはずもなかった。この日を、待っているくらいだった。きっと、自分の中で最後に探そうとして、とっておいたのかも知れない、そんな風に感じていた。
 時間はそろそろ日も沈もうかとしているような時間だった。何となく入道雲が、夕立を予想させていた。
 おれは夢中で走り始めた。とにかく由利子さんのことで一杯だった。
 彼女のすました顔、笑った顔、怒った顔、泣いた顔…そんなものが浮かんでは消えた。
 彼女ととりとめなく話した時間を思い出し、あの頃はあんなに素直に話していたな…と思った。
 おれは公園に向かって走っていた。そのうち、夕立がやはり降り出した。しかし、おれは雨なんかに構っていられなかった。早く彼女に会いたかった。もしこの雨で彼女が帰ってしまったら…、そんな事は考えていなかった。