「ふぅ……」

 俺はシャワーの蛇口を絞り、髪の水滴を振り払う。
 湯気の立ちこめる浴室の中で、俺は前屈みになってようやく上がってきた血の気で眠気が覚めるのを感じていた。だが、身体にはぼんやりとした疲れがまだ残っていた。
 それもそうだ、俺はアルクェイドと翡翠にあんなに激しいコトしたのだから……

「ふ、ふふふ……」

 思い出すにつれ、やはり口元が緩み出す。シャワーで流しても二人の肌の熱さはまだ俺の腕の打ちに残っている。
 アルクェイドは俺に目隠しをして、翡翠と一緒に……いつにもなくあんなに二人とも積極的にするだなんて……

 いけないいけない、一人で風呂場でにやけていると気味が悪いだけだ。
 まぁ、こんな夜中に誰も見ている奴はいないと思うけども。

「さて、寝床をどこにするか……」

 俺はそんなことを鼻歌混じりに呟きながら、ドアを開けてタオルを取ろうとすると――

「はい、志貴さん」
「ん、どうもありがと…………ぉああああ!」

 手渡されたバスタオルを何気なく受け取り、顔を拭いたところで気が付いた。
 琥珀さんが俺にタオルを渡してくれている――なんでこんな時刻に琥珀さんが!?

「おっ、おうっ、おおお!」
「どうされたんですか?志貴さん?そんなに慌てられて」

 俺はタオルをひっつかんで、そのままバシン!と風呂の扉を叩きつけた。
 思いも寄らぬ琥珀さんの登場で、俺の心臓はばくばくと鳴る。どうして琥珀さんが……俺が風呂に入っていると分かったんだ?

 もしかすると琥珀さんは夜なべで仕事をしていて、風呂に入ろうとしていて偶然俺と居合わせたのかも。

「あ……ごめん、琥珀さん」

 謝る俺の声は風呂場の中でエコーするが、扉の向こうの琥珀さんには聞こえているかどうか。とりあえず手早く髪と身体を拭って、タオルを腰に巻きながら俺はそーっと扉を開けて、脱衣所をのぞき見る。
 片目でちらりと見ると、琥珀さんはにこにこと笑ってた。よかった、突然あんなことをして機嫌を損ねちゃったのかと思ったけど……

「いえ、志貴さんは謝られることはございませんよー。はい、お着替えもこちらに」
「ど、どうも……着替え?ってもしかして……」

 琥珀さんが着替えを持ってくるその元は、俺の部屋しかない。
 そうなると琥珀さんはあの杯盤狼藉のベッドの上を見られた……アルクェイドだけならまだしも、琥珀さんの妹の翡翠にまであんな事をしたわけだし。

 おれがバクンバクン鳴る動悸に苦しみながら琥珀さんの顔を窺う。
 こんなに脅えている俺の様子を察したのか、琥珀さんはいたずらっ子に注意するみたいにぴっと指を立てて、俺に話しかけてくる。

「ははぁ、志貴さん……アルクェイドさんはおろか翡翠ちゃんまであんな事やこんな事をしたことをもしかして……」
「うっ、あっ、琥珀さんやっぱり……」
「それも、二人ともメイド服着用ですからねー、秋葉さまに仰ったらどんな顔をなさるか」

 汗を流したはずなのに、風呂場で俺はだらだらとサウナのように汗を流し始めた。
 それも粘るような脂汗を。まずい、秋葉にそんなことを知られるのは……その、秋葉とはご無沙汰が続いていたから彼奴がどんな風な憤激を……

 それはまずかった。秋葉の激怒は俺の命のピンチを意味した。
 あるいはアルクェイドが介入すれば、死ななくては良いものの腕の一本や二本覚悟しないと行けない。

 な、なんとか琥珀さんにそんな真似をさせないようにしないと、俺は……

「あ、あう……琥珀さん、そ、それだけはご内密に……」
「うーん、でも私は秋葉さまに報告を差し上げる義務がありましてー……」
「琥珀さんっ、その、何でもするから!」

 ……琥珀さんに白紙委任状を差し出す。
 それは何かとんでも無い墓穴を掘ったような気がしたが、今日の命を長らえるために明日の墓穴を掘っても神様はきっと間違ったことをしたとは言わないだろう。

 ――多分。いや、わからない

「そうですね……」

 琥珀さんは鼻をふんふんと歌わせて視線を彷徨わせて、何かを考えている。
 足元に冷や汗で水たまりが出来たんじゃないのかと思う俺は、はらはらしながら見守る。

「まぁ、私が秋葉さまにお話しすると翡翠ちゃんにも類が及びますから、今回だけは」
「ほっ……助かった……いや、恩に着る。琥珀さん」
「でも、私や秋葉さまも仲間はずれにしないでほしいですよー」

 あはは、と屈託無く笑う琥珀さんに釣られて俺も笑うが、どうもピンチ脱出したばかりの安堵故の苦い笑いになってしまう。おれはそっと扉を開けると、湯気と共に脱衣所に入る。
 籠の中には俺の寝間着が一着、きっちりと折り畳んで入れてあった。琥珀さんは俺に一礼してここから退こうとするが……

 寝間着。そうだ、俺の寝床。
 俺の部屋に戻っても寝場所がない――

「琥珀さん、ちょっといいかな」
「はい、なんですか?志貴さん?」

 琥珀さんは振り返ろうとしたが、着替え掛けている俺に気遣ったのか半身を逸らしただけだった。俺は大急ぎでパンツに足を突っ込み、ズボンを引き上げながら尋ねる。

「離れ、開いてるかな?」
「庭の離れですか?」

 そう、と俺は頷いた。あの離れはいつも空きっぱなしだったけども、もし行って戸締まりしてあったら間が抜けている。そうなるとまた寝床を考えなきゃ行けないし。
 あそこで取りあえず眠って、明日の朝は……アルクェイドと翡翠が大騒ぎするかも知れないけども。

「はぁ……開いておりますが?」
「あ、そう……ベッド塞がれてるからあそこで寝るつもりだったから。開いててよかった。
 夜中に迷惑掛けてごめん、琥珀さん」
「いえいえ、志貴さんも湯冷めして風邪など召されません様に」

 そう言って頭を下げて、琥珀さんはしずしずと去っていった。
 俺ははあ、と一息つくとドライヤーとブラシを取りだして髪を整える。あっちの洗面所にも明日の朝のためにドライヤーあったかなぁ、などと考えながら。

 取りあえず、寝床は何とかなった。目覚ましも起こしてくれる翡翠も居ないけども、なんとか寝坊だけはしないようにしよう。俺は靴に足を滑り込ませると、明かりの落ちた廊下に歩み出す。

 照明の落とされた廊下を歩いていると、迷宮に迷い込んでしまったかのような錯覚すら感じる。だがその道に迷わされることなく俺は階段までたどり着くと、コチコチという大時計の秒針だけが音を支配する、このホールの中を下る。
 代々の遠野家の肖像に見守られながら俺は通用口へと、庭へと向かう。

「ん?」

 俺が中庭とテラスの辺りに差し掛かると、森の奥から足音がした――様な気がした。
 ……この屋敷の中で深夜に足音というのは変だし、いくら庭が広いと言っても野生動物が住み着いているわけでもない。考えられるとしたらまぁ、レンかも……

 月と星の弱い光だけで森を歩く俺は、心細くなっているのかもしれない。
 きっと七夜の夜の記憶が俺に染みついているのだろう。あそこには何でもいた……人、ケモノ、そしてソレニアラザルモノ……ような気がする。

「……なんか変だな。早く……寝よう」

 俺はふぁぁ、と大きく欠伸をする。一眠りしたあとに風呂こそ浴びたけども、まだ身体は疲れていて休息を欲していた。ともすると根っこに蹴躓きそうになりながら、俺は離れに向かうと――

「あれ?」

 離れの玄関に、明かりが灯っている。
 もしかして誰か消し忘れたままなのだろうか?とも怪訝に思うけども……

 もしかすると、琥珀さんが気を遣って先にきて、寝床の支度をしてくれたのかも知れない。さっき風呂場で琥珀さんに離れで寝ることは告げていたから、気を回してくれて……
 そうすればさっきの足音も腑に落ちる。

「ふむ、そこまでしてくれなくてもいいのにねぇ」

 口ではそう憎まれ口を叩いてみるものの、心の中ではほっとする。
 それはそうだ、誰もいない真っ暗な離れに一人で入っていって寝床を作るよりも、明かりをともして貰って支度をしてくれた方がありがたさには天と地ほどの違いがある。俺はまるで自分の家に帰宅するかのような心安さを感じながら、和風の引き戸に手を掛ける。
 
「ただいま……かな?」

 そんなことを呟きながら三和土に上がった俺が見たものは――
 玄関に面した襖がすっと開いた。
 そして、そこから進み出てきた和服姿の女性が、玄関に三つ指突いて……

「へ?」

 琥珀さんと同じ、小豆色の和服に蝦色の帯。それに白いエプロン。
 ただ琥珀さんじゃないと分かったのは、彼女は長い髪を背中に結って垂らしている。
 三つ指ついている顔が上がって、俺が見たのは……

「お帰りなさいませ、兄さん……」
「……なんで、その、お前が?」

 俺は信じられないものを見せつけられている心地だった。
 なんで……なんで秋葉が琥珀さんの和服を着て、三つ指突いてこの離れで俺を迎えているのか?それもこんな真夜中に。

 わからない。
 わかるはずもない。琥珀さんならまだしも……
 
 俺が震えながら見守る中で、秋葉は少し恥ずかしそうに俯きながら己の姿を、改めて玄関の光の中で見ているようだった。
 和服――確かに秋葉には似合うけども、なんというのか。

「……どうして琥珀さんの服を着てるんだ?」
「それは……兄さんは翡翠の服を着ているアルクェイドがお好きなのでしょう?」

 う、と俺は言葉に詰まる。なんでそれを――と呻くまでもなかった。アルクェイドはメイド服を着たままで屋敷に居て、俺は留め立てするどころかむしろそう言う恰好のアルクェイドの方が、侍女の恰好をするお姫様というなんというのか倒錯した喜びを感じていて……

 まぁ、その、なんだ。アルクェイドは何着ても似合うし。
 鼻を掻きながらメイド服のアルクェイド――引いては先ほどの痴態を思い出してニヤニヤしている俺に、下から秋葉の視線が突き刺さる。

「なにをニヤニヤしてるんですか?兄さん」
「あ、う、あ……いや、それが今のお前とどう繋がるんだ?」
「ですので、私も琥珀の服を借りてみました……似合いますか?兄さん」

 秋葉は静かに立ち上がると、俺に手を差し伸べる。
 廊下に上がりながら秋葉を見つめると……琥珀さんのエプロン和服姿の秋葉は、カフェの女給のような感じがする。大正時代のミルクホールというか、そんなロマンの風情の漂う恰好。
 秋葉をその足袋の先からヘアバンドの上前で見上げて、俺が口にしたのは……

「どうせなら矢絣袴で襷か、あるいは巫女服の方が……」
「……何を仰っているのですか?」
「いや、その似合ってる……変だな、似合っているというのはおかしいよなぁ、お前が遠野家の主な訳だから」

 咄嗟に馬車道スタイルか巫女服の方がいいね!と失言し掛けた俺はかろうじて話題を逸らして、腕を組んで今の秋葉を評する言葉を探す。お嬢様の秋葉に使用人の恰好、というのは……高貴な身分の女性が貶められているという屈折した喜びを感じる、というよりもむしろ身分不相応な恰好という印象の方が強くて。

「……まぁ、こう言うのも時には新鮮で良いかも知れないけども、アルクェイドの真似はお前がしても……」
「似合いませんか……」
「いや、可憐で良いと思うよ。でも、お前はもっとこう……華やかなのが似合うかもな」

 俺がぽんぽん、と秋葉の肩を叩いてそう言うと、秋葉は微かにはにかむ。
 お、可愛いじゃないか秋葉も……いつもこれくらい大人しいといいんだけど。

「奥に布団敷いてあるよね、じゃぁお先に……」
「はい……って、ちょっと待って下さい兄さん!」

 秋葉の横を通り過ぎて部屋に入ろうとした俺は、がっしりと腕を取られる。
 振り返るとそこには、噛みつかんがばかりに深刻な眼差しで俺を睨む秋葉が――その、そもそもここに秋葉がいるのかの理由も分からないけども、どうして秋葉がこんなに俺に……

 秋葉は俺の袖を掴んでわななく。

「兄さん、それだけですか……私が琥珀の衣装を着ているのに、兄さんは?」
「……秋葉、その、言っている意味がよく分からないんだけど……」

 頬を掻きながら、俺はジト目で見上げる秋葉を困った顔で見返す。一体秋葉は何を言いたいのか……よくわからない。もしかしてこの恰好をしていることは、私を使用人だと思って荒々しく押し倒して下さいというサイン?馬鹿な、そんな都合の良い話が……

 ……だけども、秋葉が俺の袖を掴んで奥歯を噛み締めて睨んでいるのは、あながち俺に誇大妄想でもないような気もする。でも、今の俺はむしろ秋葉の身体よりも柔らかい布団の方に魅惑を憶えかねない。
 だって、アルクェイドと翡翠とあんなにしちゃったわけだし。

 もっとも秋葉にそのことを言えば事態はどっちに転がり出すか俺も保証しかねる……

「兄さん……兄さんは翡翠のメイド服は良くても、琥珀と私の和服エプロンは欲情しないんですね?」
「おいおい……一体何を……」
「そういうことなら分かりました。琥珀!」