まにあっくないと
                       阿羅本 景

この作品は「2つの花」の続きです。まずはそちらをお読みになり、本作品をお楽しみい ただけたら幸いです。





 

「……ちょっとこれはひどいと思わなくて?琥珀」

 秋葉の部屋の机の上に置かれた液晶テレビを目にして、秋葉は呟いた。手を組んで肘をマホガニーの天板の上に突いて、ゆがみを隠しきれない口元を被うようにして動く画面を眺めている。
 ロココ調のこの部屋の中に、不似合いな銀色のボディの液晶テレビ。そしてその配線は一台の8ミリハンディカムに繋がり、その中に収められた画像を流している。

「そうですねー、やっぱりひどいですかねー?秋葉さま」

 琥珀は秋葉の横からティーカップを差し入れる。そんな琥珀も秋葉の後ろから、画面をしげしげと覗き込んでいた。一度その画像は彼女が見たことがあるにも関わらず、まるで初めて眺めるかのように目を丸くして、お盆で口元を隠してきゃー、とか小声ではしゃいでいる。

 秋葉はキっと一瞥したが、ごく平静を保った素振りをしている。
 だが――ティーカップは秋葉の手に取られると、その磁器の肌がガチガチとけたたましい音を立てた。

「……?」

 琥珀がひょい、と覗き込んで顔色を青ざめさせる。
 なぜか……それは、秋葉の手がまるで瘧の様に震え、カップとソーサーを小刻みに打ち鳴らしているからであった。もちろん緊張で手が震えているのではない。彼女の手を震えさせるのは――怒りであった。

「あっ、その、秋葉さま……」
「兄さんと、兄さんとアルクェイドならまだしも翡翠っ、翡翠まで……琥珀?あなた妹が兄さんとこんな風に交わっているのを見て、何とも思わない訳?」
「は、困りましたねぇ……」

 だって、秋葉さまだって私だって、もう志貴さんのお手つきじゃないですか――という、嫉妬を鎮めるためにならない今更な言い訳は口にしたくても出来ない琥珀だった。口にするとそのまま憤激に狩られた秋葉の1リッター吸血コース送りに間違いがないのだから。
 あれだけは辛いので勘弁して欲しい、と琥珀は思っていた。翌日動けなくなるあの貧血の質の悪さは、生理痛の比ではないとも。

 琥珀は液晶の画面に目を遣って、なんとか回答を探そうとする。
 その画面の中に写し出されていたのは――キングサイズのベッドの上で、志貴の股間に群がって舌で、胸で奉仕をするアルクェイドと翡翠の姿であった。

 それも、この屋敷の使用人の制服である、小豆色のメイド服を着たまま。
 白いカチューシャとエプロンのリボン結びが志貴の身体の上で揺れる。

「あっ、翡翠ちゃんったらあんなところまで……大胆ですねー」
「……琥珀、貴女はもう一回見たのでしょう?今更感心して見ていないで何とかおっしゃい」

 秋葉は機嫌を損ねたようにむすっとしながらティーカップに口を着けるが、目だけはテレビから離れない。
 離せられるわけもなかった。何よりも秋葉が愛している、彼の兄の痴態の記録なのだから――

 アルクェイドと翡翠と志貴の破廉恥なベッドシーン。
 これは、琥珀の手によって仕掛けられたセキュリティ用のピンホールカメラの映像だった。それを管制室にいた琥珀が録画し、報告のためにこの秋葉の部屋で上映されているのであった。

 悪趣味きわまりないが、カメラを仕掛けることと何かあったらそれを報告するように命じたのは秋葉であった。琥珀も断ろうか、あるいは欺瞞の策を講じようかと考えたこともあったが、大人しくその命令を実行したのであった。なぜなら――志貴の寵愛は主にアルクェイドと翡翠に寄せられていているこの状況にそこはかとない不満を憶えていたのだから。

 もし志貴が琥珀を十分に夜中に可愛がっていれば、琥珀ははぐらかしたに違いない。
 更に言うと、秋葉もちゃんと可愛がればそんな命令は出なかったに違いない。

 味見するだけ味見して、その後放置する――志貴の悪癖の招いた事態と言えなくもない。
 仕掛けられたカメラに早速移ったこの激しい3Pの倒錯したプレイが、数時間遅れでこうして秋葉と琥珀の前で曝されている……そんなことは、この三人は想像するコトもままならなかったであろう。

 ただ、それを見せられている二人も何とも言いようのないじりじりとした焦燥感に煽られるだけで、この情報が何かプラスの効果を発揮しているとも思えない今の状況ではあったが――

「……どう致しましょう?秋葉さま?」
「どうって……どうってそれは、兄さんにこれを見せてこれからもっと身を慎むようにと……」
「そうすると、私たちが盗撮していたと言うのと同じコトになりますねー」

 秋葉は咄嗟に思いついたことを琥珀に言うが、すぐに口元を曲げてむーと膨れ面をする。
 ようやく震えの収まった手にあるカップを下ろすと、また肘を立てて画面に見入る。天井からのアングルだけにもかかわらず、志貴の身体に愛撫を加える二人の様は手に取るように分かる。

 キリ、と秋葉は歯ぎしりする。悪事の――同じ屋根の下で行われる兄の淫らな行動の現場を押さえたにも関わらず、それに対する策がまったく思いつかないのであった。今の自分は覗き見して淫らな喜びを憶える痴女にも等しく、それが兄を慕いそんな兄に抱かれる女性に嫉妬してのことだ、というのを自覚するのは誇り高い彼女には死にたくなるほどの情けなさであった。

 ――一体なにを私は愚かな……

 肩越しに秋葉が振り返ると、琥珀も困ったような顔で自分を見つめ返しているだけ。
 策謀神の如し、の彼女でも今は良い考えが浮かばないのか……秋葉には溜息すら吐きたい気分に落ち込む。

「……止めなさい、琥珀」
「はい、秋葉さま」

 秋葉の苛立たしげな声に応じて、琥珀はハンディカムのスイッチを押す。
 画像はぷつんと途切れて、しばしの沈黙が深夜の部屋をしん、と支配する。

 秋葉は手を握り合わせたまま、真っ暗なテレビの画面を凍り付いたように飽かず眺め続ける。
 琥珀はその後ろに控えて、主である秋葉の言葉を待っていた。
 秋葉は目を細め、思い詰めたような瞳で黒い液晶の表面を見つめていた。そこには画像は映っていなかったが、彼女の目には今でもありありと志貴の身体の上に群がるアルクェイドの、翡翠の姿が浮かんでいる。

 今この瞬間も淫らで破廉恥な交わりが行われているのであれば、乗り込んでいってこの心の中に溜まった鬱屈を洗いざらい吐き出してしまいたかった。だがこれは過去の記録であり、こぼしたミルクは皿には返らないようにもう手の出せない過去の世界の中に逃げ出して行ってしまっては、流石の秋葉も――

「琥珀?今、兄さんはどうしてるの?」
「はい……お部屋でまだお休みかと存じます」
「そう……兄さんは全く気楽なモノね。それにしても……」

 なんで兄さんはアルクェイドや翡翠ばかりで、自分には情けを掛けてくれないのだろう?
 兄さんは私は実の妹ではないと知っているのに、敬遠するような素振りを見せるのは……恋人であるアルクェイドが側にいるからなのだろうか?それとも私が妹であるということに世間的な差し障りを感じているからなのだろうか?それとも一回味見をすればそれだけで十分と……

 考えが袋小路に落ち込んでいくのに気が付かず、秋葉は血走り掛けた瞳を黒い画面に注ぐ。
 そのまま出来ることなら燃え上がって穴でも空いてしまえ、とばかりの険しさにあふれた瞳であった。

「秋葉さま……やはり、志貴さんが恋しいのですか?」

 琥珀はさらりと聞いてみるが、それでも自分が虎の尾を踏んづけたような錯覚を禁じきれない。
 秋葉はぐるりと背後の琥珀を振り返るが、顔色は怒りと言うよりも拗ねたような困惑の色に塗られている。

「そう言う貴女は、妹の翡翠が兄さんに抱かれていて、自分が放っておかれていることに……」
「それは、翡翠ちゃんが幸せそうだからいいんですよー。これで志貴さんが翡翠ちゃんを苦しめているのだったら……ただでは置きませんねー」

 すっと暗い色が琥珀の顔に一瞬走るが、すぐににこやかな琥珀の笑顔に戻る。
 秋葉は無言でそんな琥珀の顔を眺めていたが、またしても琥珀の底知れぬ本性の一端を垣間見たような気がした。そもそも、琥珀をこの様にしてしまったことに負い目を感じている彼女としても、掛ける言葉に窮する。

 だが、琥珀の口が滑った。

「まぁ、私も時々翡翠ちゃんのフリをして……」
「なんですって!」

 秋葉ががばりと音を立てて振り返り、イスを蹴って立ち上がる。
 琥珀は口元を押さえて自分の失言を呪ったが、それでも話を誤魔化そうとして口早に……

「翡翠ちゃんのフリをして志貴さんをからかっているだけですってばー、秋葉さまー」
「そう、兄さんをからかった後に唆して兄さんに抱かれているのね?」
「いえ……そ、そうならないとは限りませんが……」

 嘘をついても墓穴を掘るだけだと悟る琥珀は嘘は口にしなかったが、かといって口にした事実は事態を好転化させる要因を何も含んでいない。秋葉は爛々と燃える、ケモノのような瞳を琥珀に向ける。
 微かに髪の裾が朱に染まり、部屋の中の温度が秋葉に略奪されて冷たくなる――琥珀にはそう思えてならなかった。秋葉は略奪一歩手前の瞳で琥珀の上から下までじろじろと睨め回す。

 ――今なら秋葉さまに吸血された方がまだマシか、と埒もないことを考えてしまう琥珀。
 秋葉は怒りの堤防の決壊線を彷徨っていたが、やがて肩を振るわせて低く呟く。

「……分かったわ」
「え、なにがでしょうか?秋葉さま?」

 獲物を前に脚に力を撓める肉食動物の前にいるような心地の琥珀は、怖れながらも咄嗟に聞き返す。
 だが、怒りなのか恨みなのか、形容しがたい重い感情に押しつぶされている秋葉の声は抑揚無く響く。

「なぜ、アルクェイドや翡翠や貴女が兄さんに抱かれて、私が放って置かれるのか」
「それは……その……」
「兄さんは、兄さんは制服ふぇちなんだわ……きっと私が使用人の制服を着ていないからよ!」

 ――秋葉さま、とうとう御錯乱に?

 翡翠の頭の中を過ぎった言葉はこれだった。秋葉が嫉妬のあまり錯乱して訳の分からないことを叫び始めた。これが一番この状況をすっきり説明できる、だがそれは状況が質の悪い方へと悪化していることに他ならない。
 自分のコントロール不可能な方向に話が進み始めていることに危惧を憶える琥珀であったが、怒濤のように自らの妄想を突き進む秋葉の前にはあまりの無力であった。

 焦る琥珀を前にして、秋葉はバシ、と掌に拳を叩きつける。
 そのあまりにお嬢様らしからぬ挙動をそっとたしなめようと思う琥珀であったが、もはや目の前の秋葉は琥珀に扱いかねる領域を突き進んでいる。

「兄さんは私のセーラー服に欲情しないのに、使用人の制服フェチだなんて……なんてこと。それに気が付けば今頃私も兄さんに毎晩呼ばれてウハウハだったのに……」
「そ、そういうものですかねー?秋葉さま?」
「そういう物なのよ!」

 断言する秋葉に、はぁ、という答えしかすでに返しようがない。
 秋葉はその場で爪を噛みながらうろうろと閉じこめられたケモノのように行ったり来たりを繰り返す。ブツブツと口の中で呟き、そして……

「こうなったら私も翡翠の制服を着て兄さんに迫れば……」
「でも、そうするとアルクェイドさんと同じになりますねー」

 何を考えたのか、メイド服を着てこの屋敷の中で使用人のまねごとをするアルクェイド。
 それと同じと言われて秋葉は気分を害したように琥珀を見ると、その顔――ではなく、胸元から下の和服をしげしげと眺める。
 我と我が身に降りかかりかねない災難に暗然としかけた琥珀の耳に届いた、秋葉の言葉は……

 秋葉はにやりと口元に嗤いを浮かべる。
 そして、片手の指で机の上のテレビを指さすと――

「琥珀。貴女……貴女も自分をのけ者にされてこういうモノを見せられて、内心不満に思っているはずよね?」
「は……そ、そうかも知れませんねー」
「ならば……手を貸しなさい?悪くはしなくってよ、琥珀」

 ――逆らえばどうなるか分かっているのでしょうね?

 そんな脅しを内に秘めた秋葉の言葉に、首を横に振れる筈が琥珀にはなかった――
 まぁ、それも面白くていいかも知れない、と他人事のようにも心の片隅で感じながら。