21,Oct

1/或る、一日。








「……ふうん。じゃぁ、志貴君はその妹さんと8年も会っていなかったんだ」

 俺はその言葉にうなずくと、ぽいとポテトを口に放り込んだ。ここは学校近くのファーストフード店。何事もなく終了した一日の放課後、俺は彼女とここで他愛もない話をしていた。

「そう。だからいきなり戻ってこいと言われても実感が沸かなくてさ」

 俺は正直、困ったような顔をした。それはそうだ、言ったとおり8年前に追い出された筈の俺が、いきなり「戻ってこい」と言われたのだから。親父の死は一応この街にいて風の噂には聞いていたから、きっとコレは妹の秋葉あたりの要望なのだろうと思う。

「そっか……でも、もう少し感慨深くならない?」
「うーん。あまりに唐突すぎてなぁ。もし弓塚だったらどう……」
「志貴君」

 そこまで言ったところで弓塚が俺の言葉を遮る。見ると少し怒ったように不機嫌そうな顔で俺を見る弓塚がいた。

「もうっ、志貴君。学校の外では「さつき」でしょ」
「うっ……ああ、そうだね……さつき」

 俺はついうっかり口に出してしまった呼称を改める。が、それを聞いた弓塚……弓塚さつきの方が逆に

「うん……」

 何て真っ赤になって俯いたからたまらない。

「おい弓塚……こっちまで恥ずかしくなるじゃないかよ」
「だって……遠野君のその顔で「さつき」って呼ばれたら恥ずかしくて……」

 耳まで真っ赤にしてトレーの上で指をぐりぐりとさせる姿は、あまりにも可愛すぎた。

「……」

 結局二人とも、まるで初めてのお見合いのように共に下を向いて真っ赤になってしまっていた。俺は言葉を宙に求めるようにひと仰ぎした後

「弓塚だって、今俺の事「遠野君」って呼んだじゃないか……」

 そうやって何とか糸口を見つける。

「そ、そうだね……やっぱり、まだ慣れないからかな……」

 弓塚は俺と目を合わせられずに、横を向きながら苦笑いした。

「おかしいね、もう半年も一緒にいるのに名前で呼ぶと照れちゃうなんて」
「そうだな」

 二人でそんな事をふと思い、互いの顔を見つめて

「ふふっ……」
「ははっ……」

 何だかおかしくなって、笑顔がこぼれていた。

 

 

 弓塚が俺に想いを伝えてきてから、ちょうど半年。弓塚とはそれまで全く赤の他人だった訳じゃない。元々は中学校も一緒だったし、高校でもクラスがずっと一緒だ。初めは確かに他のみんなよりも前から知っている、という程度だったはずだ。
 しかし、いつからか俺たちはよく話すようになる。それまで、気のおける友人と言えば有彦くらいだった俺に話しかけてきた弓塚は、いつもの笑顔を振りまく元気なそれじゃなく、なんだか少しためらいがちで緊張しているようだった。
 学園祭の準備とかいろんな機会で協力するようになって、気付けばすんなりと仲良くなっていたような気がした。それは友達として、仲間として。そんな感じなんだと思っていた。

 そして……俺にとっては突然の告白。
 それは……彼女にとっては、長年の想いに対して全ての勇気を振り絞った告白。

 弓塚に教えられて初めて気が付いた、そんな感じだった。
 そうか、これが……と。

 その後、別に俺たちの関係が特別に進歩したのかと言えば、別段そう言う訳じゃない。他の連中に秘密と言うわけでもないし、いつの間にかクラスの空気が認めてくれたように、学校では至って普通に生活している。確かに一緒にこんな感じで食事をしたり、週末にふらふらと出かけたりもする。
 それは普通のカップルにしては進歩も遅く、何て事ないのかもしれない。でも、それで十分だった。弓塚と居るだけで十分楽しくて、どうこうしようと焦る事もない。毎日が穏やかに過ぎてゆく、そんな中で弓塚が居てくれるだけで幸せを感じる。

 

 

「そうだ志貴君。遠野のお家って、こっちなんでしょ?」

 ふと、思い出したように弓塚が質問してくる。

「うん、坂を上った先の仰々しいお屋敷……とでも言うべきかな」

 この時代にはかなり倒錯した外観と中身だと関係者でも思ってしまう。そんな屋敷が俺の今日から帰るべき家なのだった。

「じゃぁ、帰り道は一緒だね」
「そうか……」

 そう言われると確かにそうだ。弓塚の家を訪れた事は無かったけど、いつもは校門で帰り道が別だからと別れる俺たちだった。で、今度は俺の家が学校を挟んで逆の方向になる、と言う事は、弓塚の家と方向が一緒だと言う事だ。

「それでね、遠野君……」
「ん……?」

 そんな事を考える間に、弓塚は少し恥ずかしそうに俯きながら俺を見た。その上目遣いの瞳が、物凄くドキッとさせられてしまう。

「だから、これからは学校から一緒に帰れるね、って思っちゃって……嬉しいな」

 そう言って、頬を赤らめながら俺を見てにこっと笑う彼女は、あまりにも綺麗だった。俺だけに向けてくれる天使のような微笑みに、何だか言葉で表せないほどの想いが溢れてきて、俺は脳が熱で麻痺してしまうようだった。

「……」

 思わず、見とれてしまう。

「……」

 そんな俺の視線に、弓塚も更に顔を赤くしてしまう。そうしてふたり、また言葉を失っていた。

「うん、じゃぁ、そろそろ……」

 トレーの上はさっきからずっと空のままだったし、手に持つジュースの中身も、殆ど氷が溶けて薄まり、ただの水のようなモノになっていた。俺は壁にかけられた時計を見ると、弓塚を促した。

「そ、そうだね。最初から遅くに帰ると家の人に迷惑だもんね」

 弓塚もそれに同調してくれるように立ち上がると、片づけて店を出た。

「じゃ、行こうか……」
「う、うん……」

 いつもだったらここで分かれてそれぞれの家に向かうはずだが、今日はそうじゃないから何だか物凄く照れくさい。ただ一緒に帰るだけなのに、それが日常化していないと、こうも緊張するものなのか、と思ってしまった。

 

 俺は、ゆっくりと弓塚の歩幅に合わせて歩き出す。二人で並んで歩きながら、学校の風景を抜けて、交差点に出る。

「俺、あんまりこのあたりは詳しくないからなぁ」

 少し不安げに、交差点の向こうを眺めながらきょろきょろとしてしまう。

「大丈夫だよ。私も坂の途中までは道が一緒だから」

 そう言って、一歩弓塚が俺に近づいてきていた。そうして、交差点を抜けて住宅地に入ったところで


 スル……


 弓塚は、無言で俺の腕に自分のそれを絡めてきた。

「……!」

 俺は、あまりに想定外の出来事に一瞬立ち止まりそうになった。今までは街を歩いても横に並んでいるだけだったので、そんな事は本当に初めてで、物凄く驚いた。でも、驚きつつも横を見て、弓塚の顔を確認すると

「……」

 彼女もまた少し不安そうに、でも勇気を振り絞って起こした行動だと、痛いほど分からせてくれる思い詰めた表情。そんな少し潤んでいるかのような瞳には、俺が映っていた。

「志貴君……」

 そんな目で見られては、その手を振り解ける訳がない。いや、出来たとしても振り解かないだろう。いつもの弓塚が決して見せない、そんな儚さを含んだ顔。それは、不安で、弱々しくて、純粋で。俺だけに見せてくれる、そんな弓塚の表情に心が張り裂けそうになる。
 俺は少し引き寄せるように自分の腕をもってくる。不安にさせているのは、俺自身。だから、その不安を取り除いてやれるのは俺だけで、誰にも出来ないし、させない。分かっているから、それに精一杯答えてやらないといけなかった。
 そうして、そこに俺の意思表示をくみ取ってくれた弓塚は

「ありがとう、志貴君……」

 そう言って、俺を掴む腕に力を込めていた。
 凄く嬉しそうな笑顔。
 彼女を見ていると、こちらまで自然に笑顔が溢れてきてしまう。彼女の力、そんな彼女に今日もまた助けられ、歩いてゆく。

 言葉はないけど、言葉なんていらない
 今腕を通して伝わる、弓塚の温もりだけあれば、それだけで十分に思える
 傾きかけた夕日は、寄り添う俺たちの長い影を、1つのシルエットとして道路に落としていた。

「ね……志貴君、覚えてる……?」

 しばらくそうやって歩いた頃、不意に弓塚が口に出してきた。

「ん……?」

 弓塚を見ると、優しい表情がそこにあった。

「私達が、初めて出会った時の話」

 そう言って少し懐かしそうにする弓塚に重なる、あのころの姿がある。

「ああ……」

 あの日、真冬の凍り付く寒さの中、開く事を諦めた体育倉庫。線を絶ち、開いた扉の向こうから現れたのは、寒さに震え、恐怖に怯え、そして驚きに包まれている弓塚だった。

「あの時、私、本当に嬉しかった……」

 ぎゅっと、自然に力がこもった弓塚の腕が俺を引く。

「私、このままずっと閉じこめられちゃうのかなって思った時、志貴君が助けてくれたよね。あれから、ずっと信じてた。私がピンチになったら、きっと志貴君が助けてくれるって……私、あの時からずっと志貴君の事が好きだったんだなぁ……って思うの……」

 少し俯いて話す弓塚の言葉が、俺の心に染み渡った。
 そうだったなら、今まで何もしてやれなかった俺は、なんて酷い奴だったんだろう、と思ってしまう。

「……ううん。私、志貴君のことをそばで見られるだけで、幸せだったよ」

 そんな俺の複雑な表情を察したか、弓塚が続ける。

「志貴君には触れられない、憧れるだけで私にはそれが出来ない、そう思ってた。……でもね、やっぱり自分の気持ちに、嘘が付けなくって……志貴君の笑顔とか見ていると、わたし、志貴君の事……私だけのものにしたい……って思ってた」

 少し悲しそうに、紡ぎ出る言葉が細く絡まり合う。

「……私、みんなが思ってるほど可愛い女の子じゃない。私、志貴君の事を独り占めしたいって思っているような、ずるい子だった。……でもね、志貴君への気持ちは誰にも負けないよ。志貴君と乾君との友情にも、負けないんだから……」

 そこまで言うと、弓塚は腕を離して俺の前に出た。そうして、立ち止まる俺の目の前で、一番綺麗な笑顔で笑った。

「……だから、私、志貴君の事好きになって良かった、って思うんだ」

「……」

 涙が、出そうになった。
 弓塚の想い。
 俺は、こんな子に想われて、世界で一番幸せだと思う。それは誇張でもなんでもない。

「だから……ね」

 弓塚が、ゆっくりと俺に近づいてくる。そして……俺の胸に額を触れさせる。

「……」

 口の中がからからで、言葉が出なかった。でも、してあげられる事は分かっていた。

 優しく包み込むように、背中に手を回し
 彼女を、そっと抱き寄せていた。

「……」

 ひとつぴくっと震えて、それから弛緩し、弓塚は俺に体重を預けてくれる。そんな彼女の温もりと、優しい香りが俺に安堵を与えてくれて。
 後ろでふたつに縛られたさらさらの髪が、目の前で揺れている。それにゆっくり手を伸ばし、優しく掬った。

「んっ……」

 弓塚はくすぐったそうにする。髪の毛一本一本が、まるで絹糸のように夕焼けに光り輝いていた。指を伝い、さらりと落ちるその感触に視覚から、触覚から、美しさを覚えている。そうして全て俺の掌から零れ落ちるのを見届けると、もう一度優しく背中に手を回した。

 どれくらい、そうしていただろうか。どちらともなく、ゆっくりと体を離した。

 見つめ合う瞳。

 弓塚の瞳の奥に、全ての彼女の表情を内包したような光が見えているような気がしていた。嬉しくて、優しくて、可愛くて、不安そうで、泣きそうで……吸い込まれていく感覚に、俺は従うしかないと思わされていた。

「……ありがとう」

 なのに、弓塚はそんな俺から恥ずかしそうに離れ、笑顔を向けた。その笑顔は、どことなく不安そうで、何かまだ思い詰めているような、そんな儚さを感じずには居られなかった。

「ごめんね、急にこんな事しちゃって…… 一緒に帰れるのが嬉しかったから……」

 そう言うと、弓塚はいつもの笑顔に戻っていた。

「じゃぁ、私、こっちだから」
「ああ……」

 そう言う弓塚に対して、俺は一つの不安を感じずにはいられなかった。

「どうしたの?」

 弓塚が心配そうに覗き込んでくる。

「何だか……ここに来て、不安になってね」

 俺は正直な感想を吐露した。なんだかんだと言っても、これからの事が不安で仕方ない。屋敷の事、秋葉の事、そして……弓塚の事。
 俺は、これからどうなっていくのだろう。変わりつつある生活に、自分の未来を映し出す事を思うように出来ない自分がいた。

「……うん。じゃぁ、私がおまじないをしてあげるよ」

 そんな俺に、一瞬思い詰めたような表情をした弓塚が、明るく答えてくれた。

「おまじない?」

 その言葉に、少し驚き加減に返してしまう。

「そう、志貴君の不安を取り除いてあげるの」
「そうか……それは、嬉しいな」

 俺は自然に笑みが出る。弓塚は俺に対しても、まるで自分のように親身になって気を遣ってくれる。そういう所が、彼女の優しさだと俺は思う。時々、そんな自分に迷惑をかけてないかな? と思う事もあるが、彼女はいつも「私が勝手に心配しているんだから、気にしないで」と言ってくれる。

「で、どうすればいい?」

 俺が訪ねると

「うん……目、瞑って貰えるかな?」

 弓塚は少し照れくさそうに答えた。

「分かったよ」

 俺はそれに素直に従い、目を閉じる。

 光の刺激が遮断されて、弓塚の姿が見えなくなる。それに一瞬不安を感じてしまうほどに俺には弓塚の存在が大きいんだろうな、そう思えてしまう。
 鋭くなった気がする他の神経が、目の前にいる弓塚の気配を感じさせる。優しい香りが俺を包み、更にコツ、と靴の鳴らす音が聞こえた。

「それで?」
「うん……ちょっと待ってね……」

 目を瞑りながら訪ねると、弓塚は慌てたような、緊張したような口調で答える。そしてそのまま、まるで時が止まったように目の前で彼女の気配が動かなかった。祈りを捧げてくれているのか、そう思う傍ら、視覚情報の欠如は邪推を生み、自らを不安にさせてしまう。

「ゆ……」

 俺は悪いとは思いながらも、ゆっくりと目を開けて目の前の彼女に話しかけようと唇を動かそうとした。


 しかし、そこに

 何かが

「……」

 開かれた視界の先には、今まで見た事もない近さで弓塚が立っていた。優しく目を瞑る、そんな弓塚の美しく端正な顔が全てのヴィジョンとなっている。

 そうして、近付いていたふたりの……唇が触れていた。

 柔らかくて、でも少しだけ震えていて
 彼女の心を表すが如く、控えめに
 本当に掠めるだけの、僅かな接触だった

「……」

 言葉が出ない。
 思いも浮かばない。
 ただ真っ白になったように、こころが時を止めている。

 彼女は目を瞑ったまま、一瞬とも、永遠とも思える行動を続けている。もう一度、俺も目を閉じると、僅かに触れ合う唇から、じわりと何かが俺の体中をゆっくりと巡る感覚に襲われた。触れているところから自然に沸き出してくるような、不思議な感覚。全身を伝播するその流れに、俺は体の力が抜け落ちていった。

 弓塚が離れ一歩だけ下がると、ゆっくりと目を開けた。
 そうして何事もなかったかのように、屈託のない笑顔で俺に微笑みかける。

「……それじゃ、ばいばい、志貴君。明日の朝も、ここで待ってるからね」

 そう言い残すと、弓塚はくるりと向きを変え、走り出していた。曲がり角に隠れ、弓塚が見えなくなるまで、俺は動く事も出来なかった。

「……」

 そうして。
 彼女の姿が見えなくなった頃、俺は力の抜けていた右手をゆっくりと動かし、先程の温もりを人差し指でなぞっていた。

 今、触れていたのは……

 一瞬前のあの光景を、はっきりと思いだしてしまう。目の前に映る弓塚の目を瞑った姿。あまりに美しく、そして俺に……
 そう思った時、今度はボッと火が出るように俺の体は熱を帯びだした。あまりの熱さに暴れ出したいような衝動を抑え、俺は自分の人差し指を眺めた。

「……」

 そこには、いつも通り自分の指がある。それだけをじっと眺めるうちに、何とか熱は過ぎ去って行った。
 しかし、確かに、さっきまであった不安はなくなっていた。いつの間にか心は澄みきり浄化され、まるで彼女が俺の不安を吸い取ってくれたようだった。
 そう思うと、彼女に対する愛おしい気持ちが、心の底から溢れていた。

「……ありがとう、さつき」

 最後に、彼女の消えた先に向かってそう話しかけると、俺は屋敷の方角へ向き直り、歩き出していた。

 彼女がいるから、不安じゃない
 彼女がいるから、どんな困難でもくじけたりしない

 勇気を貰えて、俺の心はまた一つ、強くなったような気がして。
 俺は、遠野家の門をくぐっていた。