「お兄……ちゃん……?」

 しかし、都古はちょっと肩すかしを食らったかのように語尾が疑問形になっていた。
 都古は部屋に入るなり、中を見渡した……が、そこには自分の記憶の中にある「遠野志貴」を見つけることが出来なかったからだ。
 
 いるのは、左右に自分の知らない女性がふたり。
 一人はロングの黒髪が美しい、いかにも凛とした女性。
 そしてもう一人は薄い蒼髪に眼鏡をかけた、穏やかそうな女性。
 都古はどちらかが志貴に聞いていた「お姉ちゃん」なんだろうと思った。

 ……が、それよりも気になったのは

「あ……あ……」

 自分の正面のソファーで、こちらを指差して驚愕している……男の子。
 明らかに自分より年下で、「幼い」という表現が正しく当てはまっているような姿。
 そんな子が自分を指差して固まっているのを、不思議に思わないわけがない。

 都古は流石に初対面でその態度は失礼だろうと、すこしだけ非難の視線を向けた。

「ひっ……」

 少年はその視線におののき、慌ててソファーから逃げ出そうとしていた。
 が、それを強い、しかし愉しげな口調の声が引き留めた。

「あら? どうして逃げるんです?」

 それは、黒髪の女性からあげられた。
 言われ、ビクッと動きを止めてしまう少年。

「そうですよ、せっかくのお客様に失礼じゃないですか」

 そう言ったのは、反対側の女性。彼女の目もまた妖しく笑っていた。

「だ、だって……」

 少年は流石にもう都古を指さしはしなかったが、恐れおののくような瞳は相変わらずだった。

「……?」

 都古は、本当に訳が分からないようにそのやりとりを見ていた。

 目の前の少年は、ふたりの女性の言葉に射抜かれたように動かず、ソファーの背もたれにしがみつきこちらを振り返っている。
 どことなく、誰かに似ているような……と少しだけ考えようとした時

「あらあら、そこまで驚かなくたっていいじゃないですか。ねえ翡翠ちゃん?」

 後ろから声があがり、見ると矢張り琥珀が笑って翡翠に同意を求めていた。翡翠もそれに頷き、控えめに微笑んでいる。
 それを確認した後にまた正面に向き直ると、少年はずるずると滑り落ちるようにソファーに座り込んだ。

 瞳には絶望の色。蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことを言うのだろうか、5人の女性に見据えられ、真っ青な顔をしていた。

 しかし……こうして漸く正面からしっかりと見ると、どこかで見覚えがある。

 記憶を手繰る。
 どこにでもいるような顔。
 それ位顔の特徴も薄く、ありふれた存在に思えた。

 ……ありふれた……?

 そう思った時、都古の心に自分の一番ありふれた男性の姿が思い浮かび
 そして、目の前の少年とヴィジョンが重なった。


 記憶はおぼろげながら、それは8年半前。
 母親に「都古の新しいお兄ちゃんだよ」と紹介された人。
 自分より年上なのに、血の気のない真っ青な酷く病弱そうな人。
 あまり構ってくれなかったけど、私のことを気遣ってくれていた人。
 本当の妹になりたかった人。
 そして……いなくなってから今日まで想い続け、愛してやまなかった人。


「……お、にい……ちゃん?」

 都古の唇から、言葉が自然に漏れていた。

 分からない、分からないけど……それは確かにあの人を連想させていた。

 瞬間、その場にいた全員が驚いた。
 反応の微細はあれど、全員がその言葉を発した都古を信じられないと言った目で見ていた。
 一瞬、時が止まる。空間が凍り付く。

「み……都古ちゃん……?」

 そうして、正面にいた少年が少しだけ恐る恐る口を開いて。
 都古は呼びかけられた瞬間、全てが分かった。


 空気みたいに当たり前のようにそこにいて、そして私をこう呼んでくれていた人がいた。
 きっと初めて会った時も、こんな風に私を呼んでくれていたんだろう。
 私のはっきりと覚えている記憶とは、声も姿も違うけれど、この人は……私の


「お兄ちゃん……なの?」

 都古は確かめるように目の前の少年を見つめた。
 その瞳にはしっかりとした色が灯っていて、見つめられた少年は抗う術を持たない。

「…………」

 一瞬その動きが止まったように見えたが、やがてただこっくりと、その首が縦に動く。
 それを見てからしばらく反応が遅れるようにして、都古の脳に信号が届いた。

 あまりにゆっくりと頭がそれを理解しようとしている。
 めちゃめちゃによく分からないことが起こっているらしい。
 が、確かにこの子は頷いていた。
 だから……

「お……兄ちゃん」

 間違いない。
 遠野志貴、私のお兄ちゃん。

「お兄ちゃん……」

 都古は、もう一度自分の内心に確かめるように呟くと、緊張に包まれたものが一気に溶けてしまった。


 ぽろ……ぽろ……

 彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ

「あ……、う、ううっ……うわぁぁぁぁ……」

 都古はそれを確かめた後、遅れて声を上げて泣き出していた。


「!? 都古ちゃん!」

 その声に金縛りを解かれたように全員が慌て出した。
 が、黒髪の女性も蒼髪の女性も動けず、ただソファーの上でオロオロするばかり。

 琥珀も翡翠も、都古の後ろでどうしたらいいか分からないらしく、ただ心配そうに見るばかりだった。

「都古ちゃん!」

 しかしただ一人、あの少年……志貴だけはソファーを蹴るように飛び出し、都古の元に駆け寄っていた。

「うわぁぁぁぁん……うわぁぁぁぁ!」

 顔を手で覆い、信じられぬ程の大声で泣く都古。
 全ての緊張から解放されたのと、志貴の変わり果てた姿への衝撃からとで、とにかく訳が分からないままに泣きじゃくっていた。

「都古ちゃん、泣かないで……」

 志貴は都古を慰めようとして、その両肩に手を置いた。

「あ……」

 その感触に気付き、都古が一瞬泣きやんで志貴を見つめた。
 そうして、ほんの数センチの距離で愛しい人と瞳が合わさった瞬間、都古の中で気丈に守ろうとしていた何かが崩壊していた。

「お……兄ちゃん……お兄ちゃぁぁぁぁん!」

 都古は、力の限りに志貴に抱きついていた。そうして、また感情の溢れるままに大きな声で泣く。
 体躯の小さい志貴はその衝撃に一瞬は体のバランスを崩したが、すぐにその体を抱き留めて優しく頭を撫でてやった。

 いつも元気で笑ってばっかりだった都古が、今はこんなにも悲しげに泣いている。
 きゅっと自分の服を掴むその力が、とても切なく儚く感じてしまう。

 その事実が志貴にはとても辛い。
 しかし、彼女が泣きやむまで今はこうしてやる事しかできない。

 志貴も頭を抱きかかえるようにして、都古を包み込む。そうしてゆっくりとお団子の頭をさするようにしながら、優しく語りかけた。

「都古ちゃん……ごめんね……」
「お兄ちゃん……お兄ちゃぁん……!」

 志貴の声にも都古はそう答えながら、自分より小さい姿の志貴に抱きつき、ずっと泣い続けていのだった。