「これを使いましょう」
 と、琥珀さんはテーブルにとんと、食塩を置いた。
「これって……」
 秋葉がキョトンとした目で手に取る。
「ええ、食塩です」
 琥珀さんは嬉しそうにさも当たり前の事を答える。
「そんな事は分かってます。……でも、能力比較に塩なんて関係ないわよ」
 落ち着きを取り戻していた秋葉だが、的を得ない答えにまた苛立ち始めていた。
「それが大いに関係あるんですよ〜」
 琥珀さんは既に教育テレビのお姉さんの気分だ。指をふりふり楽しそうに解説をはじめる。

「はい、じゃまず志貴さん。食塩の化学式と式量は?」
「えっ…!?」
 唐突に振られて、俺は焦った。正直化学は得意な方ではない。考えるのが高じて文系になった訳で、科学は案外だった。
「えーと……食塩は塩化ナトリウムだから、化学式はNaClで、式量は……」
 そこで言葉を詰まらせる。
 ……式量って何だ?
 秋葉を見ると分かっているみたいで冷たい目が俺を襲う。翡翠は……ちゃんとした教育ってしてないのだろうから、聞くのは失礼か。
 弱った目で琥珀さんをみると、琥珀さんは、困った顔をして俺を覗き込む
「もう、ダメですよ志貴さん。センターまで日が無いんですから、これくらい答えて貰わないと。これでも砂糖とか持ってこなかっただけ、マシだと思ってくださいね〜」
「はい……」
 流石に薬学を心得ているだけ合って、化学では琥珀さんに敵うわけがない。正直にうなだれてしまった。

「式量は、分子量と同じですよ。ただ塩化ナトリウムはイオン結晶だから分子じゃないので、呼び方として式量と言うだけです。式量は分子を構成する物質の原子量の和だから、Naの原子量が23、Clが35.5なので、和を取って58.5が式量になります。分かりました、志貴さん?」
「…はい」
正直、暗号を並べられている気がしてならない。
「もう、兄さんはこれで大学行く気ですか?遠野家の者として一通りの学問は会得して貰わないと、私と釣り合いが取れないじゃないですか……」
 すこしあきれ加減の秋葉に言われて、兄として、恋人として情けなくなりそうだった。

「まぁ、そこが本題じゃないので続けますよ〜。このビンは正味60グラム、この前開けたばっかですけど、ちょっと使ったので大体式量と同じグラムだけの食塩が入ってると仮定できますね」
「えっと…、つまり1モルの食塩、と考えていいんだね?」
「そうです。志貴さん、やれば出来るじゃないですか〜」
「あら兄さん、ようやく思い出したようですね」
 涙が出そうになった。俺はどう見られているかが分かった気がする。翡翠は…そんな哀れむ目で俺を見ないで欲しいな……
「……で琥珀さん、これをどうするんですか?」
「ええ簡単ですよ。お二人の能力をこの食塩に使って頂くんです」
「「?」」

 先程と同じ?マークが飛ぶ。能力をこれに…?
「使うって、どうやって?」
「まぁ志貴さん、それはこれからです。ところでこの食塩の結晶に死の線は見えますか?」
「えっ?」
 意味が分からなかったが、とにかくやってみる事とした。ビンを手に取り手のひらに食塩をひと降り、そして眼鏡を外す。そのままではとても「死の線」を視る事は出来ないから、粒を睨むようにする。一瞬の強い頭痛の後、確かに食塩の結晶には僅かな点と線が浮かんでいるのが確認できた。
「見えたよ。で、これをどうするんですか?」
 眼鏡をかけ直しながら、俺は琥珀さんに尋ねる。
「なら簡単です。この食塩の「存在を殺して」下さい」

「……そんなことでいいんですか?」
「ええ」
 にっこりと、琥珀さんは微笑む。俺はもう一度右手で眼鏡を置き、そのままポケットのナイフを取り出して、その針の先にも似た点に突き刺した……筈だった。
「!?」
 自分の「眼」を、本当に疑った。確かに点は消えたけど、替わりににそこに残ったのは、2つに割れた食塩の粒。それぞれにまた「点」をちゃんと持っていた。
「これって…」
俺が焦る様子を見て、琥珀さんはいつも通りの笑顔で答えた。
「そうです。食塩の存在自体を殺すとなれば、それは分子としての存在を消すまでやらなきゃダメですよ。人間みたいに1個体の存在意義を殺す事は出来るかも知れませんが、単純な物資なら、それぞれを全て殺さないと」

 と、そこまで説明した後、琥珀さんは秋葉の方を見て
「秋葉様、1モルにはいくつの分子がありますか?」
 秋葉はさも当然のように
「アボガドロ定数、つまり6.02×10の23乗個ね」
 あっさりと答えた。
「それってつまり……」
 俺は何となく理解しかけた。
「その数だけ、点を突けって事?」
「そういうことになりますね〜」
 ……そんな天文学的な数の点、突く前に俺の頭が焼き切れちゃう。というか、どんなスピードで突いても、死んじゃいます。
「直視の魔眼でも、食塩1モルの存在さえも消せないのか…」
 俺はガックリきてしまった。攻撃力が強くても、数が多けりゃ話にならない、そう言う訳だったとは…

「だから言ったでしょう。私の方が優れてるって」
 秋葉は勝ち誇ったように告げた。
 ……言い返せない。秋葉だったら高々食塩の塊、ちょっと「視る」だけで消せそうだというのに…
「そうでもないですよ、秋葉様」

「!?」
「!?どういう事?琥珀。説明しなさい」
 驚く俺と秋葉を交互に眺めながら、琥珀さんは話を続けた。
「ええ、今度はちょっと物理で攻めてみましょうか。秋葉様、特殊相対論はご存じですか?」
「まぁ、話には聞いてるわ。確か、光速度が不変とか、物質は光速まで加速できないとか…」
 さすがの秋葉でも少し首を捻りながら答えてる。俺にとっては、全く未知の領域だったりする訳だ。
「十分ですよ。その中でも有名なエネルギーと質量の関係式、分かりますか?」
「確か、エネルギーは質量かける光速度の二乗、って式ね」
 二人のやりとりはとてもこの年代の人がする話じゃない。俺は目を回してしまいそうだ。翡翠は既に我関せずとじっと無表情でこちらを見ている。
「正解です。では秋葉様、この食塩全て「略奪」して下さいますか?」
 琥珀さんにそう言われ、秋葉も流石に呆れる。
「それとその式、何の関係があるのよ…!?」
 と思ったが、実際やりかけた秋葉の手が止まった。
「なるほど、それは到底無理な話ね」
 秋葉はすっぱり諦めたようだった。

「何故?教えてくれ秋葉」
 俺には全くワカラナイ。
「もう、兄さんも少しは自分の頭で考えてください」
「まぁまぁ、これは文系の志貴さんには仕方ありませんよ」
「私も文系よ」
「まぁ、積み上げたものが違いますからね〜」
「……ゴメンナサイ、教えてください」
「あら、泣かないで兄さん」
「志貴さん、今ちゃんと説明してあげますから〜」
 この時ほど首をくくりたいと思った事はなかった。

「つまり、この食塩1モルを全て略奪するならば、この式通りしなくてはいけないのですよ」
 と、琥珀さんはE=mc^2と紙に書きながら説明してくれる。横には秋葉がいて、折角だから復習しているらしい。
「cは光速度です。物質の持つ全エネルギーは、この2乗ですから、mを1グラムとして計算してみてください」
「光速度は秒速30万キロだから…2乗して全エネルギーは…90兆ジュール!?」
「そうよ。それが58.5倍されるから、量も半端じゃないわ。ところで兄さん、これ、どのくらいの熱量か知ってます?」
 途中から講師が秋葉にバトンタッチした。慈しむような目で俺を見ているが、言っている事は手厳しい。
「さぁ?」
「1グラムで広島原発2発分、といえば分かるかしら?」
「なっ…!?」
「つまり、私は117個分の広島原発を体に抱え込まないといけないんですよ。エネルギーが50%熱、40%運動、10%音に変わったとしても、私の体は熱で沸騰して消滅するか、分子運動の加速で体中の分子の結合が全て解けてプラズマになるか、音の衝撃波で体ごと吹き飛ぶか、そんな末路しかないんです。まぁ、そんな略奪は到底無理ですけど」
 しれっと言うが、とてつもない話だ。それをあっさり提案した琥珀さんも恐るべし。
「結局」
 秋葉は琥珀さんを見て軽く微笑む。
「そんな些細な事で喧嘩するより勉強しなさいって事ね」
「そう言う事です。特に志貴さん、弱点が分かって良かったじゃないですか〜」
 琥珀さんも喜んで答えた。
「はぁ…」
 俺は結局、狐につままれたように話をはぐらかされたとしか思えない。ただ2つ言える事は、俺は科学がまずい事と、大学じゃ科学の授業を取らないという事くらいだった。

「志貴様」
 翡翠が見計らったように声をかける
「そろそろ勉強の方を始められた方が」
「ああ……」
 俺はそう言うと、ゆっくり立ち上がった。なんか、貧血ではないのにフラッときていた。

「琥珀さん」
 翡翠に促されて部屋を出る直前、何となく琥珀さんに聞いた。
「琥珀さんは、誰が一番強いと思います?」
 すると、自信ありげに琥珀さんは答えた。
「そりゃ、私ですよ〜」
「その理由は?」
 間髪入れずに答えたから相当自信があると思い、その理由を聞いた途端に、琥珀さんの笑顔が、あの能面のような笑顔に変わった。
「だって、私だけ抗体を打って毒ガス蒔けば、皆さんイチコロですからね。知ってます志貴さん?毒ガスの致死量って5ミリグラムとかなんですよ。しかも皮膚に触れた瞬間に死にますから、避けようがないんです……」
「じゃ、じゃぁ!おやすみ琥珀さん!!」
 これ以上聞くのは、俺の七夜の血が拒否した。
 俺は脱兎の如く逃げだして、自分の部屋に戻った。

 結局しばらく化学式を見るのが恐くて理科の本は開けなかったりする自分がいた。

後書き

moon gazer様主催の「裏姫&嬢祭」の前にウォーミングアップという事で短編を…のつもりが以外と長くなりました。

高校生の頃、「空想科学読本」を読んで電車の中で爆笑した自分がいました。そう言う話を書いてみたい!とは理系人間で物書きとして一つの野望だったりしました。
今回はセンター試験直前、受験生応援企画と言う事で「月姫で覚える科学講座!」てな具合でお送りしました。

自分も受験生の頃はほとんど意味が分からなかったんですが、通過すると何の事無い式だったんだなぁと思わされるばかりです。
これを読んでセンター試験でマークが塗れた!という方が一人でもいたら幸いです。
え?受験生の年齢じゃほとんど月姫は出来ないって??なら「月姫で覚える科学講座!留年・浪人生向け」ということでお許し下さい(爆

次は「四季の血の剣」について科学しましょうか?(笑
というか、この時期にこんなの見ている暇あるならば勉強しましょう。自分もね…(ぉ