夏休みも、もう終わろうとしている。
 すぐに、忙しい受験の日々が待ち受けている事だろう。
 でも、俺はひとつの自信を得ていたから、決して負けない。

「志貴君、忘れ物はない?」

 玄関先で、朱鷺恵さんはちょっとだけ心配そうに俺を見た。

「大丈夫ですって。もともと荷物は少なかったんですから」

 俺は靴をつっかけながら、振り返って笑った。

 今日は、この部屋から屋敷に帰る日。
 長いようであっという間だった日々も、今まさに終わろうとしていた。

「うん、分かった」

 朱鷺恵さんが頷くと、ちょっとだけしんみりしそうになった。
 湿っぽいのは、良くないよな。
 そんな事を考えている時に、ふとズボンのポケットにあるそれに気が付いていた。

「そうだ、これ……」

 俺は手を探り入れると、部屋の合い鍵を朱鷺恵さんに差し出していた。

「殆ど使わなかったけど。ありがとうございました、朱鷺恵さん」

 なのに、朱鷺恵さんはそれを受け取ろうとはしない。
 それどころか、首を振って

「……ううん。その鍵は、志貴君が持っていて」

 そんな事まで言った。

「この部屋は、私の部屋だけど……志貴君の……志貴君の部屋でもあるから……」

 その言葉に、今日までずっと一緒にいた日々が蘇ってきた。

 あんなこともあったな。
 こんなことも。

 今は、全てが思い出に変わっているけど。
 一生、忘れられない夏だったと思う。

「……いつでも、帰ってきてね……いつでも、待ってるから……」

 少し悲壮さの漂う瞳で、朱鷺恵さんが俺を見つめていた。
 そんな朱鷺恵さんを、俺は優しく抱き締めていた。

 俺は……俺は……
 この人と、一瞬も離れたくない!
 このままぎゅっと抱き締めたまま、離したくなかった。
 連れ去りたい。
 帰りたくない。
 溢れる情動は、俺を惑わそうとしていた。

 だけど……
 今は、流されてはいけない。

 自分を
 朱鷺恵さんを
 ふたりを信じて

 ゆっくりと、体を離し、俺は一番の笑顔で答えた。

「また来ます、朱鷺恵さん」

 そう。
 これはさよならじゃない。
 別れなんかじゃないんだ。
 また会える。
 必ず、この人の元へ帰ってくる。
 そんな自信が、俺を強くしていた。

 朱鷺恵さんも、強くなったのかな

「……うんっ!」

 涙をこらえて、頷いてくれるその笑顔が、一番綺麗だった。

 

「さて……と」

 俺は駅のホームで、のんびりと包みを開く。
 もう帰る日というのに、朱鷺恵さんは律儀にお弁当を用意してくれた。
 帰りの電車の待ち時間にでも食べて、と、無理矢理俺に持たせる格好だった。

「中身は……ん?」

 いつもと違って、簡単に捨てられるように紙パック。
 それはいいとして、横に小さな紙包みがあった。

「なんだろ……これ。デザートかな?」

 何だか気になったから、それから先に開けてみる事にした。

「……えっ?」

 それは、黒い小さな箱。
 それに、小さな手紙が一枚。

 手紙を開くと、そこには朱鷺恵さんの言葉が並んでいた。

 

 

 びっくりしちゃった?
 でもね、こうでもしないと志貴君は遠慮して受け取ってくれないと思っちゃって。
 これは、私の気持ちです。受け取ってください。
                                       朱鷺恵

 

 

 箱を開くと、そこには……
 指輪がひとつあった。

 ……まったく、あの人は。
 ちょっとだけジンときた。
 その指輪を箱から取り出すと、俺は迷いもなく左手の薬指に付けてみる。
 サイズはぴったりで、いったいどこで調べたんだろうかと思ってしまった。

 それは、石も付いていないシンプルな指輪だけど。
 俺が朱鷺恵さんにあげたそれと、同じようなリングだった。

「……ありがとう、朱鷺恵さん」

 まだ熱い日差しが、俺を照りつける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この夏、忘れられない夏。

 熱い夏は、これからもずっと続いていくと思った。


 

 

(Fin)









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