Destiny Lovers
 

 

 

 

チッ、チッ、チッ……

 一定のリズムで何かが聞こえる。ぼうとした頭には、そんなわけがないのにメトロノームかと思わせる程、周りの音がしない静かな空間に俺はいるようだった。

 ……

 自分がどこかに体を横たえ、眠っていた事に気付く。いや、正確には倒れていたのだろう。だってその『どこか』までの記憶がないのだから。

 ……

 後頭部と額に感じるあたたかさ。
 やさしくていいにおいがすぐ近くにあり、すごく安心できる。
 それが何なのかは、すぐに気が付いていた。
 間違えるはずもなかった。
 そう、それは俺の……

 すうっと深呼吸をすると、ぴくりとその額に置かれていた掌の動きが止まった。
「……」
 ゆっくりと目を覚ます。血が少しずつ頭に戻っていく感覚を覚えながら光を感じ始め
「……おはようございます」
少しだけおどけたようにして挨拶をすると、目の前には思い描いていた通りのその人がいた。
「おはよう、志貴君」
 やさしく額を撫でてくれながら、少しだけ心配したような顔。この人の顔を見ると、いつも俺は幸せで心が満たされていくのを感じていた。

 朱鷺恵さん……
 俺の……俺の、特別な人
 大切にしたいって、心に決めた人

 等身大の自分を見せられるから、こうやって安心して眠っていられたんだ。無理して大人ぶっていた自分が憧れた、数少ない俺よりも年上の女性。
 何よりも、俺はそのトキエという名前の響きが好きだった。

「……ずっと、こうしてくれていたんですか?」
 瞳だけ朱鷺恵さんを見つめながら、俺は尋ねた。
 天井と空気から、自分がどこにいるのか分かった。ここは待合室、時南医院の一室だ。先程の音は、待合室に置いてある古めかしい時計の秒針から発せられていた。
 俺はそのソファーに横になりながら、朱鷺恵さんに膝枕をされていた。
 首の後ろにある心地よい感触。それは朱鷺恵さんの体温を感じさせてくれて、ずっといつまでもこうしていたいと思う。
「うん。志貴君がいつまでも起きてくれないから」
 朱鷺恵さんはそう言うと、安心したようにその手で俺の額をもう一度撫でてくれた。そのほっそりとした指が触れると、心臓の高鳴りを覚えてしまう。
「すみません、また貧血なんか起こして……」
 俺は思い出すと、自分の体を恨めしく思った。

 今日時南医院に来たのは、検診の為だった。最近は特に調子が良くサボりがちだったのだが、暇な休日の時間つぶしにでもと思い訪れたのだった。
 そして……そこに朱鷺恵さんがいたから。
 調子に乗って朱鷺恵さんに採血なんてして貰ったのが裏目に出た。立ち上がって診察室のドアを開けようと思ったところで、意識が暗転して俺は倒れていた。
 そうして、診察室から続くこの場所で俺は介抱されていたのだろう。

「ちょっとビックリしちゃった。あれだけ元気そうだったのにドアの所でふフワッてなったら、そのまま倒れちゃったんだもの」
 首を微かに向けるとそのドアが見える。そこから視線を朱鷺恵さんに戻して俺は苦笑すると、体を持ち上げようと肘をソファーに立てた。
「大丈夫、志貴君?」
 朱鷺恵さんの膝枕から離れるのは名残惜しいけど、いつまでもそうしてはいられなかった。誰よりも朱鷺恵さんを独占できているという喜びはあったけど、それよりも朱鷺恵さんにいつまでもこの格好をさせているのはかわいそうだったから。
 朱鷺恵さんに体を支えられながら起きあがるが、まだ体が鉛を入れられたかのように重かった。いきなり無理して立ち上がって元気な振りをしたら、もう一度倒れてしまいそうだ。

 朱鷺恵さんには意地を張る必要なんて無かった。ありのまま、自分の情けないところも見せられるような人。いくら大人ぶっても朱鷺恵さんの前では等身大になってしまう自分に、俺はこの人に全てを許しているんだ、と強く感じるのだった。
「何とか……でも、ちょっと無理かな?」
 俺がソファーに体を起こして座り直し、朱鷺恵さんと視線を同じ高さにすると苦笑した。
 少し肌寒さを感じてシャツの袖をさする。休診日で人の気配のしないここはひんやりとした空気が流れていて、俺は暖かさが恋しくなった。
 それに気付いたのか、朱鷺恵さんが
「もう少し暖かい方がいいよね……わたしの部屋行く?」
提案をしてくれたから
「そうですね」
俺は頷くと、ゆっくりと立ち上がる。
「大丈夫?」
 朱鷺恵さんはそんな俺に肩を貸してくれた。悪いと思いつつも少しだけ体重を預けると、触れたところから朱鷺恵さんの体温を感じて少し嬉しかった。俺は朱鷺恵さんの香りをすぐ横に感じながら、ゆっくりと部屋に向かっていった。

「はぁ……」
 楽な格好でベッドに横になっていた俺は、朱鷺恵さんの香りの詰まった布団を撫でながらため息をついていた。
 朱鷺恵さんの部屋でもう少し眠った後、目が覚めると朱鷺恵さんは暖かい紅茶とお菓子を用意してくれた。それをいただいて一息つくと、心に余裕が出たせいか、色々と思い出してしまっていた。
「どうしたの? そんな気の抜けた顔して」
 朱鷺恵さんは椅子に座ってすぐ隣にいるが、俺のその様子に不思議そうな声を浮かべた。にこにこといつもと同じ笑顔を向けてくれるのが、かえって辛く感じてしまう。
「いや……」
 俺は窓の外を見る。日差しは明るくすっきりと晴れた空が広がっていた。絶好のお出かけ日和とでも言わんばかりに。
 それだからこそ、余計に心が痛んだ。

「約束……破っちゃいましたね。せっかく一緒にデートしようって言ったのに」
 空を眺めながらそう言ったのは、照れ隠しの為。まだ手に握っていたティーカップに視線を落とすと、ようやく心の準備を整えて朱鷺恵さんを見れた。
「そっか……検診終わったらお出かけしようって決めたんだよね」
 朱鷺恵さんはすっかり忘れてた、というようにはにかむと
「いいよ、志貴君がそんな事気にしちゃだめだから」
そう言いながら俺の手からティーカップを受け取り、テーブルの上に置いていた。

 朱鷺恵さんと診療室で二人っきりになってから、俺は約束していた。
 『これ終わったら、どこか遊びに行きましょう』と。
 久しぶりに一緒にいられる時間が作れる、朱鷺恵さんが頷いてくれたから嬉しかった。
 映画館、喫茶店、それから夕方の公園。
 他愛もない事だけど、朱鷺恵さんと一緒に町を歩いて、話をして。
 普段は通り過ぎていくだけの時間が、思い出として俺の心に刻まれるはずだったのに。
 全てが俺のせいで台無しになってしまったのだった。

 朱鷺恵さんに、俺はいつでも迷惑を掛けっぱなしだった。
 最初に出会った時から、意地を張ってどうしても素直になれなかったり
 憧れを気付かれたくないと、照れ隠しで悪戯をしてみたり
 意識し始めた頃、俺はあまりにも子供だった。
 そして今。
 やっと素直になれて、心も……体も、通じ合わせられたというのに……
 少しも朱鷺恵さんを幸せに出来ない自分が、悔しかった。

 ぐっと唇を噛み締めながらそう思っていると、朱鷺恵さんが少し心配そうにする。
「大丈夫? まだ辛い?」
 俺は知らぬ間に怖い顔をしていたらしい。慌てて笑顔をみせると
「大丈夫です、暖かく出来たし、もう貧血はないと思います」
「よかった……じゃ、ちょっとこれ下げてくるね」
 そんな自分に心の中で反省をしながら、朱鷺恵さんが安心してティーセットを片づけに部屋を後にするのを見送っていた。

 朱鷺恵さんがいなくなって、俺は改めて部屋を見渡した。
 朱鷺恵さんの部屋は俺の部屋なんかよりもずっと綺麗に整頓されていて、広さに対して寂しさを感じさせない落ち着いた雰囲気だった。
 この部屋に二人の思い出はたくさんあった。
 この部屋を初めて見たのはもっと小さい頃だった。暇そうにしていた朱鷺恵さんの遊び相手としてよく連れ込まれて、トランプとかして遊んだっけ。
 時南医院を訪れる楽しみの一つで、俺は先生の検診の後のご褒美だと自分に言い聞かせて、意味もなく遊びに来ていたような気がする。

 そして……この場所はもっと忘れられない出来事のあった場所。
 子供だった二人が、少しだけ大人になった場所。
 時を忘れてお互いの体温を感じあった場所。
 熱く、強く、激しく、お互いの事を知り合った場所。

 何をするでもなく、ベッドに二人で入ってただぼんやりと夜を明かした事もあった。
 隣を見れば朱鷺恵さんがいて、何も言わずに唇を触れるだけ重ね合わせたり、髪を撫でながら、くすぐったそうにしている仕草を見てたまらない気持ちになったり。
 甘酸っぱい記憶は恥ずかしいものではなく、自分にとって誇らしく思える。
 纏わず全てをさらけ出して朱鷺恵さんと見つめ合う一時が、限りなく幸せな時間だった。
 こんな時間が永遠に続けばいい……俺はずっとそう思っている。
 だからこそ、こんな風にいつまでも情けない自分でいたくなかった。
 男として、この人を幸せにしてあげたいと思う。
 なのに気持ちだけが未だ空回りしているようで、苦笑いを浮かべるしかなかった。

「お待たせ〜」
 朱鷺恵さんが戻ってくる頃には、少しだけ感傷的になっていた自分を振り払い、今できる事、笑顔を見せる事に努力した。
「大分顔色も良くなってきたね、これなら大丈夫かな?」
 そう言われて朱鷺恵さんに頬を撫でられると、俺は先程思いだしていた事もあってすこし赤面した。
「ふふ、赤くなった」
 それに気付いて朱鷺恵さんが笑うと、ゆっくりとベッドの橋に腰掛けてきた。俺も布団から出て、少し体をずらしながら朱鷺恵さんの横に座った。

 こっちを見つめてるその笑顔が眩しい。
 穏やかで朗らかで優しくて……トキエという名前がこれほど似合っている人なんて、他には絶対いないと思った。
「ごめんね、朱鷺恵さん……この借りは必ず埋め合わせするから」
 俺はそんな朱鷺恵さんの笑顔がもっと見たかった。だからきっと喜んでくれるであろう言葉を見つけて、約束だと誓った。
「うん。じゃあ、指切りしよう?」
 その言葉と共に、朱鷺恵さんが嬉しそうに右手を差し出した。
 指切り。
 そんな些細な事だというのに、その行動には強い意味が込められているよう。
 朱鷺恵さんが差し出した手を見つめる。すらりと伸びた手は自分のそれとは違って、いかにも女性らしくほっそりとしていた。
「? ……ほら、志貴君も指」
「あ、ああ……」
 そうしてこちらを見て首を僅かに傾けている仕草だけでも、俺は幸せな気分になれた。呆けていた気持ちをあるべき位置に戻して、俺はそっと指を絡めた。
「指切りげんまん……」
 朱鷺恵さんが嬉しそうに唱えながら手を振る間、絡まり合った指から視線を離せない。こうして幾度と無く触れ合っている指先なのに、そこからじんと暖かさが伝わってくるようで、愛おしい気持ちになった。

「……指切った、……」
 呪文は終わった。
 でも、二人はどちらからとも指を離そうとはしなかった。
 俺は、指先からすっと腕を伝って、朱鷺恵さんの顔を見つめる。
 朱鷺恵さんは、少しだけ困ったような顔で俺を見ていた。それは離れない事が嫌なんじゃなくて、離れたくないという気持ち。絡まりをほどきたくない思いは、一緒だった。
 きゅっと、朱鷺恵さんが俺の手を包み込むようにして両手を重ねてきた。
 その感触を確かめながら、俺は更に朱鷺恵さんの手を撫でていた。

「……わたしね、志貴君といるこの瞬間だけでも、楽しんだよ。本当は、こんな約束なんて全然必要ないくらい」
 不意に、朱鷺恵さんの唇から、笑顔と共に優しい声が流れた。
「志貴君はデートしてないって思ってるかも知れないけど、そんなことない。志貴君、わたしね、一緒に町を歩いてくれなくても、一緒に映画を見てくれなくても、全然寂しくなんか無いんだよ……」
 瞳に吸い込まれるようにして、俺は朱鷺恵さんの言葉をただ黙って聞いていた。ぎゅっと力の籠もった朱鷺恵さんの手に、言葉の意味を感じていた。
「こうしている事が、わたしにとってはデートだから……二人で一緒にいれば、いつだってそれはわたし達のデートだって思ってる」
 そんな朱鷺恵さんの表情が、一瞬曇った。
「……だから、今日志貴君が倒れちゃったのに、少しだけ嬉しいって思っちゃった……膝枕をしていて、ずっと側にいられるんだって思うと、志貴君を独り占めできるんだって気持ちになって、わたしだけの志貴君を他の誰にも見せたくないって、そう思ってるずるいわたしがいた……ごめんなさい、志貴君。わたし、わたし……ひどい女の子だよね」
 その言葉は、朱鷺恵さんの心の内を見せてくれた。

「そんな事無いです……俺だって」
 誰だって、大切な人を自分だけのものにしたいって思う。
 それは……俺も同じだった。
 朱鷺恵さんが少し驚いたようにこちらを見るのを確認してから、俺は言葉を続けた。
「街行く人の視線が朱鷺恵さんに向けられるのを見ると、嫉妬してた。大声で朱鷺恵さんは俺だけの特別な人だって叫びたい気持ちを抑えた事も……だから、きっとお互い様なんですよ。それなら、俺だってひどい奴です。だから、そんな事気にしないでください」
 恥ずかしい言葉でも、朱鷺恵さんの前なら素直に言えた。
「うん……ありがとう」
 朱鷺恵さんは驚きから微笑みに変わると、ぎゅっと両手を握ってくれた。少しだけ俯いて、視線を俺に向けようとしないけど、俺は何も言わないでそのままでいた。

 愛しかった。
 ただ何よりも、目の前にいるこの人が愛しい。
 それだけで十分で、他に何もいらない。
 だから……

「朱鷺恵さん」
 俺は朱鷺恵さんにお願いした。
「ぎゅってして、いいですか?」
「えっ……?」
 朱鷺恵さんはその言葉に顔を上げると、少し驚いたような表情を見せた。瞳には少しだけ光るものがあって、先程の名残を思わせた。
 朱鷺恵さんの瞳をまっすぐ見つめながら、俺はそれ以上何も言わなかった。それ以上ねだってもダメ、自分の中での意味のないケジメとして決めながらも、朱鷺恵さんの言葉を待っていた。
「……うん、いいよ。ぎゅってして」
 ゆっくり頷いて、朱鷺恵さんが微笑んだ。
 嬉しかった。

「……」
 何も言わずに、重なり合った手はほどかれた。
 そうして、俺は朱鷺恵さんの肩を抱くと、自分に引き寄せて……抱き締めた。
「……」
 朱鷺恵さんを胸に感じながら、背中に手を回していた。
 あったかくて、いいにおいで、やわらかい……そんな朱鷺恵さんの体を、俺はぎゅっと抱き締めていた。
 腕の中で、朱鷺恵さんの体がぴくりと動いた。彷徨っていた手が、ゆっくりと俺の背中に回り、俺を抱き締めてくれていた。
 ぴったりと密着しているようで、それだけで幸せを感じた。
 腕の中の朱鷺恵さんはお姉さんなのに、いつからか俺の方が体躯が大きくなっていて。こうしてすっぽりと包めてしまうと、なんだか朱鷺恵さんが儚く思えてしまった。
 やっぱり……特別な人。
 俺が、朱鷺恵さんを大事にしなくちゃいけないんだ。
 こみ上げてくる思いが、自分の中の全てを押しやってしまっていた。
 俺は、そのまま朱鷺恵さんと一緒にベッドに倒れ込むように横になると、ゆっくりと顔を近づけていった……








TOPへ 次へ