寒夜 折野 町
小刻みに鳴る音に、思わずより深くコタツにもぐり込んだ。足にじんわりと伝わる温もりに、ほっとする。外の寒さを忘れたように部屋の中は暖かい。
「朱鷺恵さん…」 穏やかに微笑む朱鷺恵さんに、自然と頬が緩んだ。目の前に立つ朱鷺恵さんの笑顔は、いつ見ても全く変わらない。俺を包み込んでくれるような微笑みに、ほっとしたような嬉しさが胸にこみ上げた。 「先生はいるんですか」 慌てて首を振る。 「そんなことないです。じ、じゃあお言葉に甘えて」 マフラーを取り、コートを脱ぐと朱鷺恵さんの後について行く。
「よかったら夕飯食べていく?」 ふふ、と笑うと朱鷺恵さんが立ち上がった。 朱鷺恵さんの作ってくれた手料理を夢中になって食べながら、それでも俺はいつもの何倍も話を続けた。屋敷にいる時だってこんなに話をしたことはない。何日分もの話を一気にしたように思った。調子に乗って延々と話を続ける俺に対して、時には頷き、時には笑顔を見せながら朱鷺恵さんは目を細めて聞き続けてくれていた。 夕食を終えて一息つくと、ふと会話が途切れた。マヌケな話だがずっと喋り続けて疲れてしまい、俺が急に黙り込んだからだった。 (さすがだなぁ。そして、何一つ変わってない) さりげない気の使い方。そしてそれを何事もないようにこなしてしまえる。他人を優しく包み込むような笑顔。そっと心までをほぐしてくれる言葉。 初めて憧れという名の想いを抱いたその人は、今でもそのままの姿でいてくれた。 (あの日もそうだった。忘れられない、あの日も―――――) 酸っぱいような気持ちと何とも言えぬ気恥ずかしさが胸に甦る。それを噛み締めたまま、遠くなった日ののことをぼんやりと思い返した。 今夜のように寒い日のことだった。 だが、行為の相手がまさかこの人になるなんて。 夢にも思わなかったといえば嘘だった。まだ味わったこともない行為の妄想相手にこの人を選び、何度一人で勝手に汚してはそのたびに空しさを感じただろう。あんなにそうあればいいと思ったくせに、いざ実現しようとしたら緊張と興奮で胸が張り裂けそうになっていた。嬉しくて、そして怖かった。 「どう?志貴くん。…わたしの、身体」 何かを言いかけたが、言葉にならなかった。喉は焼け付くように渇き、舌がうまく動かない。また一つ大きく喉を鳴らす。心臓はさっきから絶えず激しい鼓動を打ち続けていた。 「…何か言って欲しいな。これでもわたしだって、恥ずかしいんだからね」 ほのかに頬を染めると上目遣いに朱鷺恵さんがこっちを見た。 「あ、あ……その…き、き…きれ…い、です」 やっとの思いで掠れた声を漏らした。他にもっと言いたい事はあったはずなのに、目の前にある朱鷺恵さんの肌が全ての言葉を奪い去っていった。初めて自分を受け入れてもらう人の身体がこんなにも美しいものだと知った時、あまりの事に気が変になりそうだった。 「ありがとう、嬉しいな。ねえ志貴くん。その言葉、いつまでも忘れちゃだめだよ。女の子は何度言われても嬉しいんだから。……たとえ嘘でもね」 分かってる、と言うと朱鷺恵さんが俺の髪に触れた。 「本気で言ってくれたから、だから嬉しいの」 優しく髪を撫でながら、にっこりと微笑んだ。髪に触れられた手の重みを感じながら、まるで子供のように頭を撫でられてホッとしつつもちょっぴり悔しかった。 「ねえ、わたしだけじゃなくて志貴くんも体をみせて」 言われてはっとした。朱鷺恵さんの姿に見惚れて俺はまだ、Tシャツはおろかジーンズすら脱いでいなかった。慌ててシャツを脱ごうとして、ふと手が止まってしまった。あることに気づいたからだった。 (何やってんだ俺。そんなこと気にしてる場合じゃないだろ) もう一人の自分が急かす。懸命に脱ごうとするが、自然と手の動きが鈍ってしまう。カッ、と顔が熱くなった。 「どうしたの?恥ずかしがることなんてないんだよ」 しどろもどろになりながらも、手が動いてくれない。胸の辺りまで脱ぎかけて、どうしても先に進めなかった。不思議そうにそれを眺めてた朱鷺恵さんが、やがて何かに気がついた。 「大丈夫。驚いたりしないから、安心して」 その言葉が俺の背中を押した。一気にシャツを脱ぎ去ると、痩せた自分の身体を晒す。空気に触れて、さっと鳥肌が立った。 大きな傷跡が、胸の辺りに広がっている。 決して癒えぬ痕。それが刻まれているのを、朱鷺恵さんは知っているはずだった。さすがに傷の理由までは知らされてはいなかったと思う。それが唯一の救いだった。そして、仮にもこの医院の娘である以上、こういう事態には慣れている人なはずだろう。 それなのに。 そんな身体を受け止めてやれない自分が、死にたいほど惨めで情けなかった。 「参っちゃいますよね。いつまでもこんな傷があって、カッコ悪いですよ」 へへ、と照れ笑いで誤魔化そうとした時。 「そんなこと言っちゃダメ」 キッと睨まれた。聞きなれない力強い言葉にビックリした。 「え……?」 朱鷺恵さんの手が、傷跡にそっと触れた。 「君が今こうして立派に生きている証なんだから。まだ小さかった君が勇気を出して必死で生き残ろうと頑張った、たった一つの証なの。こんなにカッコいい印が他にある?誇りに思っても貶めるなんて絶対にダメなんだから。そんなこと言うほうがずっと、ずっとカッコ悪いよ」 いつもの口調に戻ると、優しくその場所を撫でた。 「この傷がある限り、君は人に優しくなれるよ。わたしが約束する」 思わず俯いた。最後の言葉の意味はよく理解できなかったが、それでも涙がこみあげてきて仕方がなかった。カッコいい。この傷が、カッコいい印だと言ってくれた。そんな事を言ってくれたのは、この人が初めてだった。 「ほら、そんな顔しないの。男でしょ?」 朱鷺恵さんの両腕が伸びると俺の体に絡んだ。素肌がくっつき合う。初めて味わう感覚に息を呑んだ。ぴたりと触れ合う朱鷺恵さんの肌は、ふわりと柔らかくて温かだった。 「朱鷺恵さん……!!」 勢いあまって折れそうなほど力を込めた。応えるように朱鷺恵さんの腕にも力が篭ると、顔の前に唇が近づいてきた。 「ねえ、志貴くんって彼女とかいるの?」 唐突に言われてはっと我に返った。気づけばいつの間にか朱鷺恵さんはテレビから俺の方へと顔を戻して、興味深そうな眼差しを向けていた。 「えっ?…っと…」 答えようとして一瞬、ある女の面影が頭を掠めた。だけどすぐにそれを打ち消した。 「いませんよ。残念ながら」 チクリと胸が痛むのを、気づかぬ振りをした。 「本当?」 さらりと俺の質問をかわすと、自分一人が納得したような視線を送ってきた。その視線に心臓がとくん、と鳴る。あの眼が。近くにいると思わせて一歩遠くに立つようなあの眼がいけないんだ。どれくらいあの眼に振り回されただろう。 「いませんよ。それに、俺そんなにモテないし」 流し目で俺を見る。言葉に詰まるのを明らかに楽しんでいる様子だった。これ以上何を言っても深みにはまりそうで、視線を逸らした。その先に、微笑んでいる唇が見える。飾ってない唇が笑うたび、白い歯が微かに覗いた。かわいらしく動く唇に、またあの日の光景がはっきりと思い出された。 朱鷺恵さんの唇は、俺の体のあらゆる所に触れてくれた。 「んっ……」 愛しく大切そうに痕を唇が撫でる。それが嬉しくて、心地よかった。だがそんなのはほんの手始めだったと知ったのは、それからすぐ後だった。 「っあ!…あ、ぐ…あ、うあっ!」 朱鷺恵さんの唇が。いつも優しい言葉をくれたあの唇が、自分の物を咥えている。目の前に映る光景がまだ信じられずにおかしくなりそうだった。唇が動くたび腰から背骨へと疼きが走る。一人で耽っていた時の快感なんか比べものにならなかった。 「あ、あっ、ち、ちょっと朱鷺恵、さんっ…!待っ…」 耐え切れずにがばりと身を起こすと、ようやく唇が離れた。俺を見上げる朱鷺恵さんと目が合って、顔から火が出そうになる。朱鷺恵さんの手は俺から離れず、濡れきったそれの先端を指先で軽く擦った。 「やっ…」 こそばゆい痺れが流れて顔を顰めた。その表情も見られてしまったと思うとさらに顔が熱くなる。逃げるように再びベッドに倒れると、唇の生温かさがまた自分を覆い始めた。 「く…ふあっ…ん、んん…だ、めだ…と、きえさん…!!」 両腕で顔を覆い、必死で唇を噛む。それでも端から声が漏れっぱなしになり、自分の声がいやに大きく聞こえた。朱鷺恵さんの動きはさらに強くなり、溜まっているものが一気に咥えられた場所へ集まるのが分かった。 「…………!」 たまらず口を押さえた。それに気づくと朱鷺恵さんが俺の手を取って離してしまった。 「だめ。ちゃんと声、聞かせて」 俺の手を軽くつかんだまま、朱鷺恵さんが顔を寄せてきた。 「だ、だって……」 そう言って唇を緩ませた。俺を見下ろしながら頬を染めて微笑む顔に、ぞくりとした。憧れ続けた人は、一人の女になっていた。優しい瞳には強烈な色香が滲み、唇は濡れきって艶めいていた。
(落ち着けよ。一体何考えてるんだ、俺は) 心の中で舌打ちした。ずいぶんと昔になったあの日の事を、よくこんなにも覚えているもんだ。他にもこの人との思い出はあったはずなのに、あの事だけはっきりと思い出せる。 (だけど、もう終わったことなんだぜ) もう一人の俺の声がする。分かってる。分かってるよそんなことは。あの日の出来事は、 「………?」 コタツの中にある足元に、何かが当たっているのに気がついた。ちらりと思いを巡らせてそれが何だか分かった時、急にまた顔が熱くなった。朱鷺恵さんの足が、触れていた。 互いの足首が絡むように触れている。どちらかともなく自然にそうなったに違いない。いつごろからだったんだろう。だが今までずっとそうしていた事にすら気づかなかった。何でもないはずなのに意識した途端、足元が気になってしょうがない。目の前の相手は平気な顔をしているが、気づいていない―――はずはなかった。 唾を飲み込む。
「んっ…は…や、だめ、志貴くん。そんなにしちゃ……」 執拗に顔を埋める俺を抱きしめながら、朱鷺恵さんが声を上げる。いつもと違って初めて聞く声だった。こんなにも蕩けるような声を出すのだと知った時、俺の興奮はこの上ないほどに盛り上がった。朱鷺恵さんを喜ばせようとか、感じさせようなんて思う余裕は無かった。ただひたすらに、欲求のままに動く動物と化していた。 「あっ…はぁっ…!んぁ…」 夢中で顔を擦りつけ、舌で乳房のあちこちを舐め回す。あれほど懸命に本で覚えた知識なんて無意味だった。手順も技術もクソもない。ぎゅっと抱きしめられたまま、初めて触れる朱鷺恵さんの乳房を撫で、息が詰まりそうなほど顔を押し付けるので精一杯だった。 突然下半身に何かが触れた。見ると朱鷺恵さんの片手が、俺の物を包みこんでいた。 「大…丈夫?…もう、こんなに……」 湿った声を朱鷺恵さんが漏らした。顔から力が抜けてゆく。熱く滾りっ放しになっていたそこは、指が触れただけで全身に痺れが走ってきた。 「や、やめ……」 必死に声を上げた。なのにその願いを無視して朱鷺恵さんの手はゆっくりと包んだ物を擦り始めた。手が上下に動き、敏感な場所に指が触れるともうそれで一気に果ててしまいそうだった。痛いほど唇を噛み、目を固く閉じて耐える。 「んぁっ…!あ、くぁ…はっ!」 噛みしめた唇から声が漏れる。その快感は想像以上だった。微妙な強弱をつけながら動く手に、俺は朱鷺恵さんにしがみついたまま何も出来なかった。なすがままに朱鷺恵さんの手の中で果てるのかと覚悟した時。 「…ね。もう…いいよ」 ふと手が休まると、耳元で囁く声がした。俺から離れると、朱鷺恵さんがシーツの上に身を横たえた。その姿に心臓が一段と大きく鳴り響く。自分の心音以外何も聞こえてこなかった。呼吸が定まらない。目に入る汗を手で拭うと、何度も頭を振った。意識が薄れていきそうなのを懸命に押し留める。 大きく息をつく。覆いかぶさるように、朱鷺恵さんの上に身を乗り出した。 (やばい) 思わず手で口を押さえた。腰の辺りが強張って、耳の後ろにむずがゆい熱さを感じた。氷が溶け出すようにまともな思考が崩れ始めてゆく。あの日の残像が体中を支配して、絡みあう足首に意識が集中していた。やばい。このままじゃマジで流される。 「志貴くん」 弾かれるように顔を上げた。しまった。気づかれたか。 「今日はどうするの?もうだいぶ遅いけど」 言われて初めて時計を見た。いつの間にか終電の一歩手前の時刻になっていた。窓硝子を鳴らしていた木枯らしはいつしか止んで、静かな冬の夜が外に降りていた。 「よかったら泊まっていく?」 その一言が体を貫いた。 「え。でも……」 ぐらり、と体が揺れた。微笑みを浮かべたまま朱鷺恵さんは俺を見つめている。その眼差しが本気なのか洒落なのか、俺は見分けがつかなくなっていた。やめておけ。これ以上前に踏み出すな。もう一人の俺が叫ぶ声が、だんだんと遠くなってゆく。 もう一度。 このまま動かずに、流れに身を任せればよい。そうしろと背中を押す声が頭の中でガンガンに鳴り響いている。それを必死に押し留める理性の欠片はあと一息で消えようとしていた。 「どうする?志貴くん」 不意に朱鷺恵さんが動くと、目の前に身を乗り出した。吐息がかかるほど近くに顔が来た。黒々とした瞳に俺の顔が映る。微かに開いた唇。ほんの少し手を伸ばせば、その頬に触れられる距離だった。間近に迫ったこの顔が、消えかけた理性の灯に最後の息を吹きかけた。 その、瞬間。 一人の女が脳裏に揺らめいて、俺に向かって微笑んだ。 「――――――――帰ります」 一気に炬燵から抜け出すと、その場に立ち尽くした。 突然言い放ったのに一瞬呆然として朱鷺恵さんが俺を見上げた。自分でも訳が分からずに立ち上がったまま、呆けたように朱鷺恵さんを見下ろした。しばらく黙って俺を見上げていたが、やがてにっこりと笑顔を浮かべた。 「よかった」 安心したような笑みを見せると、朱鷺恵さんは一人頷いた。 「もし泊まっていくって言ったら、志貴くんを嫌いになるとこだったから」 さっと冷や汗が吹き出ると、煮え滾った熱が急激に冷え込んでゆく。 「…やっぱり、からかったんですか」 思わず語気を荒げて、慌てて口を押さえた。焦る俺を見てクスリと朱鷺恵さんが笑った。 「だって志貴くん、大切な人いるでしょ。分かるんだよそういうの。昔と違ってきみは…」
(ああ、やっぱり) この人はそういう人なのだ。朱鷺恵さんはやっぱり、朱鷺恵さんなのだ。 ほっとした感情が全身を駆け巡る。 (馬鹿だな、俺は) そんな事も分からずに、叶わぬ夢を一瞬でも見てしまった。儚い期待を抱いてしまった。あわよくば、と動こうとした自分がひどく間抜けでカッコ悪いにもほどあがる。恥ずかしさのあまり今すぐにもこの場から逃げ出したかった。 「かなわないな、朱鷺恵さんには」 ようやく口を開くと、作り笑いを浮かべた。それが俺に出来る精一杯のことだった。 「でもね、志貴くん」 少し真面目な顔をすると、優しく眼を細めた。 「ちょっぴり妬けちゃうな。ひょっとしたら、わたしがその大事な人になれたかもしれなかったから。残念ね」 その言葉に唇を噛んだ。何も言えずにただ、その場に突っ立っているしかできなかった。 「じゃあ、気をつけて」 靴を履き、マフラーを首に纏うと朱鷺恵さんが俺の背に声をかけた。振り返って朱鷺恵さんの顔を改めてじっと見つめた。こうして顔を眺められるのも、何故だがこれで最後のような気がしたからだった。 「うん。朱鷺恵さんも、体に気をつけて下さい」 ありがとう、と返事をすると朱鷺恵さんがまた微笑んだ。気遣ってくれたその言葉は、今はまた自然にありがたく受け止める事ができた。 「じゃあね」 朱鷺恵さんが軽く手を振る。同じ挨拶を返そうとして、どうしても言葉が出てこなかった。この言葉を言ってしまったら、本当に別れてしまう気がしたから。自分の中の何かがまだ未練がましくそれだけを拒み続けていた。 「あ……」 外へ出た途端、その場に立ち止まった。白い息を吐きながら、空を仰いだ。花びらに似た白い小さなものが漆黒の夜空から地上を埋めつくすように降り注ぎ、早くも地面をうっすらと純白に染め上げていた。 「あ。やっと会えた。迎えにきたよ。ずっと待ってたんだよ、志貴」
金色の髪。降る雪に溶け込んだ、白い衣装。 「―――――っ!!」 一気に駆け出すと、女の側に走り寄った。何も言わずに女の体を強く抱きしめた。いったい何時ごろから待っていたのか、抱きしめた体は芯から冷え込んでこの夜の空気と同じ位だった。 「ちょ、ちょっと。そんなにしたら痛い、痛いよ志貴。志貴ってば」 女の声が聞こえる。それを無視して俺はいつまでも抱き続けた。顔のすぐ下に、女の頭がある。金の髪に軽く積もった雪を払いのけると、その手で何度も髪を撫でた。抱きしめたまま、遠い彼方に顔を向けた。女の顔を、見れなかった。胸の痛みはさらに激しくなり、焼け付くような熱さを帯びて俺を責め立てた。 「―――馬鹿」 呻くような声を上げた。 「馬鹿。馬鹿だ。本当に、本当に馬鹿だ。大馬鹿だ」 どこまで俺は馬鹿なんだろう。どれほど愚かで、醜い奴なんだろう。薄汚くて嫌な奴で、そして自分勝手で間抜けでみっともなくて。どんなに自分を罵っても足りなかった。自分という人間を目の前で見ることが出来たなら、今ここで死ぬまで殴りつけてやりたかった。 「何よ。せっかく迎えにきてあげたのに、馬鹿とはずいぶんじゃない」 怒鳴りつけて初めて女の顔を見た。訳が分からず怪訝そうな顔をしている女を見て、ようやく抱きしめた腕を緩めた。 「………………ごめん」 ぽつりと呟いた。うなだれた俺を不思議そうに眺めていた女がにっこりと笑った。 「いいよ。何があったか知らないけど、許してあげる。だって、あたしを見て真っ先に抱きしめてくれたもん。やっぱり志貴の手はあったかいね。だから、許してあげる」 ニコニコと、いつものように笑っている。死にたくなった。そのくせ涙がこみ上げてくる。俺はどこまでも弱っちくて、ダメな奴だった。 「帰ろ、志貴。ね?」 ガードレールから身を起こすと、女が俺の腕に自分の腕を絡みつかせた。すまないと思いつつ、その温もりが嬉しかった。黙って頷くと、俺は自分のマフラーを外した。女の襟元にそれをそっとかけてやる。すっぽりとマフラーに首元を埋めるとまた嬉しそうに微笑んだ。 「ありがと。優しいね、志貴」 笑顔が痛かった。その痛みを飲み込むと、二人でゆっくりと雪道を歩き始めた。 「…?どうしたの、志貴」 歩いてきた道を振り返った。もう遠くなってしまった彼方に、一軒の灯火がほのかに見える。時南医院の灯す明かりだった。じっと明かりを見つめる。しばらくその光を見つめたあとで、小さく呟いた。
――――――さよなら。
雪がさっきより勢いを増し始めた。 |