寒夜  

折野 町

 

 


 木枯らしが窓硝子を震わせた。

 小刻みに鳴る音に、思わずより深くコタツにもぐり込んだ。足にじんわりと伝わる温もりに、ほっとする。外の寒さを忘れたように部屋の中は暖かい。
 使い込まれた石油ストーブが炭火のような火を赤々と灯し、その上に置いてある薬缶が白い湯気を吐き続けている。炬燵の上にコーヒーの入ったマグカップが二つ。立ちのぼる湯気の向こうに、一人の女の人の顔が見える。
 
 横にあるテレビをぼんやりとその人が眺めている。コーヒーにちょっとづつ口をつけながら、俺はその横顔をじっと見つめ続けていた。


 
 時南医院を訪れたのは、暮れも押し詰まったある日の夕方のことだった。
 ちょっとした用事で近くまで寄ったので、ひさしぶりに訪ねてみようかと思い立った。白い息を吐きながら呼び鈴を鳴らすと、思いがけぬ懐かしい顔が玄関の中から覗いた。

「朱鷺恵さん…」
「あら、ひさしぶりね、志貴くん」

 穏やかに微笑む朱鷺恵さんに、自然と頬が緩んだ。目の前に立つ朱鷺恵さんの笑顔は、いつ見ても全く変わらない。俺を包み込んでくれるような微笑みに、ほっとしたような嬉しさが胸にこみ上げた。

「先生はいるんですか」
「今日は生憎ちょっと留守にしているの。何か用があったの?」
「い…いえ。そんな訳じゃ」
「だったら中へ入って。それとも忙しいかな?」

 慌てて首を振る。

「そんなことないです。じ、じゃあお言葉に甘えて」

 マフラーを取り、コートを脱ぐと朱鷺恵さんの後について行く。
 廊下を歩きながら微かに胸が高鳴るのを、ぐっと黙って呑み込んだ。


 暖かな部屋に通されてコタツに身を沈めた途端、どちらからともなく会話が堰を切ったように始まった。互いの近況から昔の思い出話まで、尽きぬ話をしているうちにいつしか外はとっぷりと闇に沈んでいた。

「よかったら夕飯食べていく?」
「え。い、いいんですか?」
「もちろんよ。志貴くんの口に合うかどうか分からないけど」
「そんなことないです!朱鷺恵さんの作ってくれるものなら何だって!」
「そう言ってくれると嬉しいわ」

 ふふ、と笑うと朱鷺恵さんが立ち上がった。

 朱鷺恵さんの作ってくれた手料理を夢中になって食べながら、それでも俺はいつもの何倍も話を続けた。屋敷にいる時だってこんなに話をしたことはない。何日分もの話を一気にしたように思った。調子に乗って延々と話を続ける俺に対して、時には頷き、時には笑顔を見せながら朱鷺恵さんは目を細めて聞き続けてくれていた。

 夕食を終えて一息つくと、ふと会話が途切れた。マヌケな話だがずっと喋り続けて疲れてしまい、俺が急に黙り込んだからだった。
 何かを話していなけりゃ済まない気がして、次の話題を頭の中で探った。しかしこういう時に限って浮かんでこない。少し焦って顔を天井に向けた時、朱鷺恵さんの手がコタツの上にあったリモコンに伸びた。
 テレビの電源を入れると、たわいもない番組が流れ始めた。頬杖をつくと朱鷺恵さんが画面に向かって顔を向けた。ごく自然な流れの動きだった。
 何気ない動作に一秒も気まずくなることなく、和やかな沈黙が二人の間に流れ始めた。まるで何年も一緒に過ごした家族のような、穏やかな静けさだった。

 (さすがだなぁ。そして、何一つ変わってない)

 さりげない気の使い方。そしてそれを何事もないようにこなしてしまえる。他人を優しく包み込むような笑顔。そっと心までをほぐしてくれる言葉。

 初めて憧れという名の想いを抱いたその人は、今でもそのままの姿でいてくれた。
 物事が変わらないことは嬉しいことでもあるのを、俺は改めて思い知らされた。
 
 眼鏡の向こうにある景色に、朱鷺恵さんが映っている。肩の辺りまで伸びた、黒々とした髪。テレビを眺める横顔と頬杖をつく指先を見つめつつ、視線を下に移した。
 ピンク色のカーディガンが身体を包んでいる。細くなだらかな身体を見ているうちに、ふとある想いが浮かび上がって心臓が震えた。

 (あの日もそうだった。忘れられない、あの日も―――――)

 酸っぱいような気持ちと何とも言えぬ気恥ずかしさが胸に甦る。それを噛み締めたまま、遠くなった日ののことをぼんやりと思い返した。

 今夜のように寒い日のことだった。
 
 乾いた空気に包まれた、冬晴れの午後だったのをよく覚えている。閉め切ったカーテンから漏れる陽射しと布から透ける光が、部屋を微かに明るくしていたからだった。
 
 薄暗い部屋の中で、俺と朱鷺恵さんはベッドの上に向かい合って座っていた。これから始まる行為に俺の体はガチガチに固まって、頭の中は真っ白になりそうだった。
 初めてその行為をする。それ自体は何の抵抗もない。むしろ一日も早くそんな日が来ることを願っていた気がする。人並みに女の子に興味を覚え、毎日といっていいほど友達の奴らとそんな話を繰り返し、一人妄想に耽ったりもしていた。

 だが、行為の相手がまさかこの人になるなんて。

 夢にも思わなかったといえば嘘だった。まだ味わったこともない行為の妄想相手にこの人を選び、何度一人で勝手に汚してはそのたびに空しさを感じただろう。あんなにそうあればいいと思ったくせに、いざ実現しようとしたら緊張と興奮で胸が張り裂けそうになっていた。嬉しくて、そして怖かった。
 
 何度も唾を飲み込みながら、じっと朱鷺恵さんを見つめる。やがて朱鷺恵さんが黙って俯くと、服のボタンに手をかけた。静かにゆっくりと衣服を脱ぎ始める。その動きを瞬きもせず俺は見守っていた。一枚ずつ衣擦れの音が立つたびに、肌の見える部分が露になってゆく。
 そうして全てを脱ぎ去ると、軽くシーツに手をついて俺の前に身を乗り出した。

「どう?志貴くん。…わたしの、身体」
「――――――」

 何かを言いかけたが、言葉にならなかった。喉は焼け付くように渇き、舌がうまく動かない。また一つ大きく喉を鳴らす。心臓はさっきから絶えず激しい鼓動を打ち続けていた。
 細く丸い肩からすらりと伸びる腕。シーツの上についた両腕の間から、ほどよい曲線を描いたやわらかそうな乳房が見える。なだらかにくびれた腰。崩したままの両脚。
 クリーム色の肌を纏った朱鷺恵さんの肉体は、カーテンから漏れる薄明かりを背に受けてその輪郭が微かな光を放っているように見えた。

「…何か言って欲しいな。これでもわたしだって、恥ずかしいんだからね」

 ほのかに頬を染めると上目遣いに朱鷺恵さんがこっちを見た。

「あ、あ……その…き、き…きれ…い、です」

 やっとの思いで掠れた声を漏らした。他にもっと言いたい事はあったはずなのに、目の前にある朱鷺恵さんの肌が全ての言葉を奪い去っていった。初めて自分を受け入れてもらう人の身体がこんなにも美しいものだと知った時、あまりの事に気が変になりそうだった。

「ありがとう、嬉しいな。ねえ志貴くん。その言葉、いつまでも忘れちゃだめだよ。女の子は何度言われても嬉しいんだから。……たとえ嘘でもね」
「そんな。嘘なんて俺……」

 分かってる、と言うと朱鷺恵さんが俺の髪に触れた。

「本気で言ってくれたから、だから嬉しいの」

 優しく髪を撫でながら、にっこりと微笑んだ。髪に触れられた手の重みを感じながら、まるで子供のように頭を撫でられてホッとしつつもちょっぴり悔しかった。

「ねえ、わたしだけじゃなくて志貴くんも体をみせて」

 言われてはっとした。朱鷺恵さんの姿に見惚れて俺はまだ、Tシャツはおろかジーンズすら脱いでいなかった。慌ててシャツを脱ごうとして、ふと手が止まってしまった。あることに気づいたからだった。

(何やってんだ俺。そんなこと気にしてる場合じゃないだろ)

もう一人の自分が急かす。懸命に脱ごうとするが、自然と手の動きが鈍ってしまう。カッ、と顔が熱くなった。

「どうしたの?恥ずかしがることなんてないんだよ」
「え…いや…あ、あの…あ…」

 しどろもどろになりながらも、手が動いてくれない。胸の辺りまで脱ぎかけて、どうしても先に進めなかった。不思議そうにそれを眺めてた朱鷺恵さんが、やがて何かに気がついた。

「大丈夫。驚いたりしないから、安心して」

 その言葉が俺の背中を押した。一気にシャツを脱ぎ去ると、痩せた自分の身体を晒す。空気に触れて、さっと鳥肌が立った。
 朱鷺恵さんの視線がある一点を見つめている。その眼差しが痛くて思わず顔を背けた。

 大きな傷跡が、胸の辺りに広がっている。

 決して癒えぬ痕。それが刻まれているのを、朱鷺恵さんは知っているはずだった。さすがに傷の理由までは知らされてはいなかったと思う。それが唯一の救いだった。そして、仮にもこの医院の娘である以上、こういう事態には慣れている人なはずだろう。
 だがそれを理解できても、心はついて来てくれなかった。あまり他人に見せるものでもなかったが、誰よりもこの人には見られたくなかった。こんな機会が来ることを勝手に夢想しながら、偉そうにもこの人の前だけは胸を張れる身体でいたいと思っていた。貧弱な俺の身体は棚に上げて、そのくせきれいな身体でいたいなどとと考えていたのだ。

 それなのに。
 
 自分の思いを嘲笑うかのように傷は胸に巣食っている。いつもよりひどく醜い物のように思えてしょうがなかった。こんなものを見られたら、さすがの朱鷺恵さんだって引くか笑うのではないかと怖かった。―――そして何より。

 そんな身体を受け止めてやれない自分が、死にたいほど惨めで情けなかった。

「参っちゃいますよね。いつまでもこんな傷があって、カッコ悪いですよ」

 へへ、と照れ笑いで誤魔化そうとした時。

「そんなこと言っちゃダメ」

 キッと睨まれた。聞きなれない力強い言葉にビックリした。

「え……?」
「そんなこと、絶対に言っちゃダメ。二度と言ったらわたしが許さないから。いい?志貴くん。忘れないで。この傷はね…」

 朱鷺恵さんの手が、傷跡にそっと触れた。

「君が今こうして立派に生きている証なんだから。まだ小さかった君が勇気を出して必死で生き残ろうと頑張った、たった一つの証なの。こんなにカッコいい印が他にある?誇りに思っても貶めるなんて絶対にダメなんだから。そんなこと言うほうがずっと、ずっとカッコ悪いよ」
「朱鷺恵さ…」
「それにね、志貴くん」

 いつもの口調に戻ると、優しくその場所を撫でた。

「この傷がある限り、君は人に優しくなれるよ。わたしが約束する」

 思わず俯いた。最後の言葉の意味はよく理解できなかったが、それでも涙がこみあげてきて仕方がなかった。カッコいい。この傷が、カッコいい印だと言ってくれた。そんな事を言ってくれたのは、この人が初めてだった。
 ぐっと唇を噛む。嬉しさと恥ずかしさがごちゃまぜに頭を駆け巡り、朱鷺恵さんの顔をまともに見れなかった。

「ほら、そんな顔しないの。男でしょ?」

 朱鷺恵さんの両腕が伸びると俺の体に絡んだ。素肌がくっつき合う。初めて味わう感覚に息を呑んだ。ぴたりと触れ合う朱鷺恵さんの肌は、ふわりと柔らかくて温かだった。
 弾かれたように思いっきり朱鷺恵さんを抱きしめた。

「朱鷺恵さん……!!」

 勢いあまって折れそうなほど力を込めた。応えるように朱鷺恵さんの腕にも力が篭ると、顔の前に唇が近づいてきた。

「ねえ、志貴くんって彼女とかいるの?」

 唐突に言われてはっと我に返った。気づけばいつの間にか朱鷺恵さんはテレビから俺の方へと顔を戻して、興味深そうな眼差しを向けていた。

「えっ?…っと…」

 答えようとして一瞬、ある女の面影が頭を掠めた。だけどすぐにそれを打ち消した。

「いませんよ。残念ながら」

 チクリと胸が痛むのを、気づかぬ振りをした。

「本当?」
「本当ですよ。どうしていきなりそんな事聞くんですか、朱鷺恵さん」
「別に。…ただ、何となくね」

 さらりと俺の質問をかわすと、自分一人が納得したような視線を送ってきた。その視線に心臓がとくん、と鳴る。あの眼が。近くにいると思わせて一歩遠くに立つようなあの眼がいけないんだ。どれくらいあの眼に振り回されただろう。

「いませんよ。それに、俺そんなにモテないし」
「あら、そうなの?それは周りの女の子も見る目がないわねえ。志貴くん結構モテそうなのに」
「からかわないで下さいよ。あり得ないっす、そんな事」
「そうかなぁ。わたしから見ればなかなかイイ線いってると思うけど。それともわたしの言うことなんて、信じてもらえないかな?」
「ぐ……」

 流し目で俺を見る。言葉に詰まるのを明らかに楽しんでいる様子だった。これ以上何を言っても深みにはまりそうで、視線を逸らした。その先に、微笑んでいる唇が見える。飾ってない唇が笑うたび、白い歯が微かに覗いた。かわいらしく動く唇に、またあの日の光景がはっきりと思い出された。

 朱鷺恵さんの唇は、俺の体のあらゆる所に触れてくれた。
 口づけは数え切れぬほど交し合い、痛くなるほどまでした。両手で顔を挟まれたまま舌を差し入れられた時、その溶けるような感触に崩れ落ちそうだった。首筋から鎖骨、胸へと吸われ、そして傷跡に触れるとさらに念入りに押し当てた。

「んっ……」

 愛しく大切そうに痕を唇が撫でる。それが嬉しくて、心地よかった。だがそんなのはほんの手始めだったと知ったのは、それからすぐ後だった。

「っあ!…あ、ぐ…あ、うあっ!」

 朱鷺恵さんの唇が。いつも優しい言葉をくれたあの唇が、自分の物を咥えている。目の前に映る光景がまだ信じられずにおかしくなりそうだった。唇が動くたび腰から背骨へと疼きが走る。一人で耽っていた時の快感なんか比べものにならなかった。

「あ、あっ、ち、ちょっと朱鷺恵、さんっ…!待っ…」

 耐え切れずにがばりと身を起こすと、ようやく唇が離れた。俺を見上げる朱鷺恵さんと目が合って、顔から火が出そうになる。朱鷺恵さんの手は俺から離れず、濡れきったそれの先端を指先で軽く擦った。

「やっ…」

 こそばゆい痺れが流れて顔を顰めた。その表情も見られてしまったと思うとさらに顔が熱くなる。逃げるように再びベッドに倒れると、唇の生温かさがまた自分を覆い始めた。

「く…ふあっ…ん、んん…だ、めだ…と、きえさん…!!」

 両腕で顔を覆い、必死で唇を噛む。それでも端から声が漏れっぱなしになり、自分の声がいやに大きく聞こえた。朱鷺恵さんの動きはさらに強くなり、溜まっているものが一気に咥えられた場所へ集まるのが分かった。

「…………!」

 たまらず口を押さえた。それに気づくと朱鷺恵さんが俺の手を取って離してしまった。

「だめ。ちゃんと声、聞かせて」

 俺の手を軽くつかんだまま、朱鷺恵さんが顔を寄せてきた。

「だ、だって……」
「恥ずかしがらないで。我慢してるより気持ちよくなってるのが分かったほうが、女の子だって嬉しくて気持ちいいんだから。ね?」

 そう言って唇を緩ませた。俺を見下ろしながら頬を染めて微笑む顔に、ぞくりとした。憧れ続けた人は、一人の女になっていた。優しい瞳には強烈な色香が滲み、唇は濡れきって艶めいていた。
 もう一度俺自身に唇が触れた。それが最後だった。自分でも驚くぐらい高い声を上げながら、何もかもかなぐり捨てて俺は朱鷺恵さんの唇の中で―――――


 びくっと体が震え、鳥肌が立った。
 顔を上げると朱鷺恵さんはまたテレビを眺めている。よかった。気づかれなかったらしい。ホッと胸をなで下ろすとコーヒーを口に運んだ。冷め切ったコーヒーはいやに苦くて、ぼんやりとした頭を覚ましてくれそうだった。

(落ち着けよ。一体何考えてるんだ、俺は)

 心の中で舌打ちした。ずいぶんと昔になったあの日の事を、よくこんなにも覚えているもんだ。他にもこの人との思い出はあったはずなのに、あの事だけはっきりと思い出せる。
 そんなに良かったかと聞かれれば、確かにそうかもしれない。その後何人かの女と同じ事をしてみたが、やっぱこの人との事だけは特別な気がする。たぶんずっと忘れないんだろう。

(だけど、もう終わったことなんだぜ)

 もう一人の俺の声がする。分かってる。分かってるよそんなことは。あの日の出来事は、
たった一度きりの思い出なんだ。二度とあり得るはずのない、夢みたいな話だったんだ。
 その後も朱鷺恵さんはちょくちょく俺をからかったりもしたが、それはあくまでからかってるに過ぎない。下手に本気になったりしたらどんな痛い目を見るかぐらい、さすがに俺も分かるようにはなっていた。朱鷺恵さんの横顔を見て小さなため息をついた、その時。

「………?」

 コタツの中にある足元に、何かが当たっているのに気がついた。ちらりと思いを巡らせてそれが何だか分かった時、急にまた顔が熱くなった。朱鷺恵さんの足が、触れていた。

 互いの足首が絡むように触れている。どちらかともなく自然にそうなったに違いない。いつごろからだったんだろう。だが今までずっとそうしていた事にすら気づかなかった。何でもないはずなのに意識した途端、足元が気になってしょうがない。目の前の相手は平気な顔をしているが、気づいていない―――はずはなかった。
 二人の足首はぴたりとくっついて離れない。さりげなくそっと離そうかと思ったが、なぜか出来なかった。むしろこのまま、ずっとこうしていたかった。靴下を通じて朱鷺恵さんの足の形が分かる。小さくて、細い足首。布から伝わる生暖かい温もりは、コタツが放つ熱気とは違っていた。それはまぎれもなく、朱鷺恵さんの肌が生む温もりだった。

 唾を飲み込む。
 触れ合う足の温度が、肌の記憶を呼び覚ました。


 やわらかく、吸い込まれるような感触。石鹸の香りに似た甘い匂いが漂っていた。ふくよかで、ほどよく大きい形をした乳房。そのふくらみに顔を押しつけると、犬のように鼻を鳴らした。甘い肌の香りの中に、微かに汗の匂いがした。それすらも吸い込むように、目いっぱい顔と舌で朱鷺恵さんの乳房を味わった。

「んっ…は…や、だめ、志貴くん。そんなにしちゃ……」

 執拗に顔を埋める俺を抱きしめながら、朱鷺恵さんが声を上げる。いつもと違って初めて聞く声だった。こんなにも蕩けるような声を出すのだと知った時、俺の興奮はこの上ないほどに盛り上がった。朱鷺恵さんを喜ばせようとか、感じさせようなんて思う余裕は無かった。ただひたすらに、欲求のままに動く動物と化していた。

「あっ…はぁっ…!んぁ…」

 夢中で顔を擦りつけ、舌で乳房のあちこちを舐め回す。あれほど懸命に本で覚えた知識なんて無意味だった。手順も技術もクソもない。ぎゅっと抱きしめられたまま、初めて触れる朱鷺恵さんの乳房を撫で、息が詰まりそうなほど顔を押し付けるので精一杯だった。
 
「………うあっ!?」

 突然下半身に何かが触れた。見ると朱鷺恵さんの片手が、俺の物を包みこんでいた。

「大…丈夫?…もう、こんなに……」

 湿った声を朱鷺恵さんが漏らした。顔から力が抜けてゆく。熱く滾りっ放しになっていたそこは、指が触れただけで全身に痺れが走ってきた。

「や、やめ……」

 必死に声を上げた。なのにその願いを無視して朱鷺恵さんの手はゆっくりと包んだ物を擦り始めた。手が上下に動き、敏感な場所に指が触れるともうそれで一気に果ててしまいそうだった。痛いほど唇を噛み、目を固く閉じて耐える。

「んぁっ…!あ、くぁ…はっ!」

 噛みしめた唇から声が漏れる。その快感は想像以上だった。微妙な強弱をつけながら動く手に、俺は朱鷺恵さんにしがみついたまま何も出来なかった。なすがままに朱鷺恵さんの手の中で果てるのかと覚悟した時。

「…ね。もう…いいよ」

 ふと手が休まると、耳元で囁く声がした。俺から離れると、朱鷺恵さんがシーツの上に身を横たえた。その姿に心臓が一段と大きく鳴り響く。自分の心音以外何も聞こえてこなかった。呼吸が定まらない。目に入る汗を手で拭うと、何度も頭を振った。意識が薄れていきそうなのを懸命に押し留める。

 大きく息をつく。覆いかぶさるように、朱鷺恵さんの上に身を乗り出した。

(やばい)

 思わず手で口を押さえた。腰の辺りが強張って、耳の後ろにむずがゆい熱さを感じた。氷が溶け出すようにまともな思考が崩れ始めてゆく。あの日の残像が体中を支配して、絡みあう足首に意識が集中していた。やばい。このままじゃマジで流される。
 ありえない夢を見てしまう。叶わぬ欲望を抱いてしまう。踏んではならない罠を―――

「志貴くん」
「は、はいっ!?」

 弾かれるように顔を上げた。しまった。気づかれたか。

「今日はどうするの?もうだいぶ遅いけど」
「え……」

 言われて初めて時計を見た。いつの間にか終電の一歩手前の時刻になっていた。窓硝子を鳴らしていた木枯らしはいつしか止んで、静かな冬の夜が外に降りていた。

「よかったら泊まっていく?」

 その一言が体を貫いた。

「え。でも……」
「別に構わないわよ。どうやら父はこのまま出先で泊まってくるみたいだし。寝る所はあるから大丈夫だけど?」

 ぐらり、と体が揺れた。微笑みを浮かべたまま朱鷺恵さんは俺を見つめている。その眼差しが本気なのか洒落なのか、俺は見分けがつかなくなっていた。やめておけ。これ以上前に踏み出すな。もう一人の俺が叫ぶ声が、だんだんと遠くなってゆく。
 朱鷺恵さんはそれ以上何も言わない。終電にはまだ間があった。あとは俺が唇を開くだけだった。気づけばテレビはとっくに消され、コチコチと時計が時を刻む音とストーブにある薬缶が吐く息だけが部屋の中に響き渡っていた。足はずっと、離れない。

 もう一度。
 もう一度、あの夢が見れるのなら。

 このまま動かずに、流れに身を任せればよい。そうしろと背中を押す声が頭の中でガンガンに鳴り響いている。それを必死に押し留める理性の欠片はあと一息で消えようとしていた。

「どうする?志貴くん」

 不意に朱鷺恵さんが動くと、目の前に身を乗り出した。吐息がかかるほど近くに顔が来た。黒々とした瞳に俺の顔が映る。微かに開いた唇。ほんの少し手を伸ばせば、その頬に触れられる距離だった。間近に迫ったこの顔が、消えかけた理性の灯に最後の息を吹きかけた。

 その、瞬間。

 一人の女が脳裏に揺らめいて、俺に向かって微笑んだ。

「――――――――帰ります」

 一気に炬燵から抜け出すと、その場に立ち尽くした。

 突然言い放ったのに一瞬呆然として朱鷺恵さんが俺を見上げた。自分でも訳が分からずに立ち上がったまま、呆けたように朱鷺恵さんを見下ろした。しばらく黙って俺を見上げていたが、やがてにっこりと笑顔を浮かべた。

「よかった」
「……え?」
「よかった。やっぱり、志貴くんは志貴くんだった」

 安心したような笑みを見せると、朱鷺恵さんは一人頷いた。

「もし泊まっていくって言ったら、志貴くんを嫌いになるとこだったから」
「な―――――」

 さっと冷や汗が吹き出ると、煮え滾った熱が急激に冷え込んでゆく。

「…やっぱり、からかったんですか」
「う〜ん、からかったって言うか…ちょっと意地悪してみたくなっちゃったかな。だって、志貴くんが絶対に断るのは分かってたもん」
「どうしてそんなことが、分かるんです」
「あれ?自分で分からない?」
「分かりません。説明してください」

 思わず語気を荒げて、慌てて口を押さえた。焦る俺を見てクスリと朱鷺恵さんが笑った。

「だって志貴くん、大切な人いるでしょ。分かるんだよそういうの。昔と違ってきみは…」


 ――――大事な人を守る、男の子の顔になってたから――――


 眼を見開いた。
 体から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。
 見抜かれていた。バレていた、何もかも。

(ああ、やっぱり)

 この人はそういう人なのだ。朱鷺恵さんはやっぱり、朱鷺恵さんなのだ。
 憧れ続けた女の人は、ずっとそのまま変わらなかった。変わらないでいてくれた。俺の前で一人の女になることなく、ずっとお姉さんでいてくれたのだ。どんなに俺が背伸びをしても、あと一歩の所で手が届かない。それが朱鷺恵さんという人だったのだ。
 朱鷺恵さんの前では俺は頭を撫でられる子供なのだ。そしてそれは今までも変わることなく、これからも変わらないのだ。この人は永遠に「朱鷺恵さん」で、俺は「志貴くん」なのだ。

 ほっとした感情が全身を駆け巡る。
 安心してるはずなのに、なぜだか悔しくて、とっても悔しくてしょうがなかった。

(馬鹿だな、俺は)

 そんな事も分からずに、叶わぬ夢を一瞬でも見てしまった。儚い期待を抱いてしまった。あわよくば、と動こうとした自分がひどく間抜けでカッコ悪いにもほどあがる。恥ずかしさのあまり今すぐにもこの場から逃げ出したかった。

「かなわないな、朱鷺恵さんには」

 ようやく口を開くと、作り笑いを浮かべた。それが俺に出来る精一杯のことだった。

「でもね、志貴くん」

 少し真面目な顔をすると、優しく眼を細めた。

「ちょっぴり妬けちゃうな。ひょっとしたら、わたしがその大事な人になれたかもしれなかったから。残念ね」
「――――――――――」

 その言葉に唇を噛んだ。何も言えずにただ、その場に突っ立っているしかできなかった。

「じゃあ、気をつけて」

 靴を履き、マフラーを首に纏うと朱鷺恵さんが俺の背に声をかけた。振り返って朱鷺恵さんの顔を改めてじっと見つめた。こうして顔を眺められるのも、何故だがこれで最後のような気がしたからだった。

「うん。朱鷺恵さんも、体に気をつけて下さい」
「たまにはまた、父の所へ検診に来るのよ。心配してるんだからね」

 ありがとう、と返事をすると朱鷺恵さんがまた微笑んだ。気遣ってくれたその言葉は、今はまた自然にありがたく受け止める事ができた。

「じゃあね」

 朱鷺恵さんが軽く手を振る。同じ挨拶を返そうとして、どうしても言葉が出てこなかった。この言葉を言ってしまったら、本当に別れてしまう気がしたから。自分の中の何かがまだ未練がましくそれだけを拒み続けていた。
 無言で背を向けると、医院の玄関を押した。古びた木の扉が、大きな音を立てて開いた。

「あ……」

 外へ出た途端、その場に立ち止まった。白い息を吐きながら、空を仰いだ。花びらに似た白い小さなものが漆黒の夜空から地上を埋めつくすように降り注ぎ、早くも地面をうっすらと純白に染め上げていた。
 ゆっくりと駅への道を歩き始めた。もう終電には間に合わないかもしれない。別にそれでも構わないと思った。やりきれない気分を抱えたまま、走ることなんで出来なかった。一歩一歩とこの気分を噛みしめながら歩こうとした、その時。

「あ。やっと会えた。迎えにきたよ。ずっと待ってたんだよ、志貴」


 足が止まった。雪の降り積む地面の先に、確かにその声が聞こえた。
 静かに顔を上げる。舞い散る白い影の中に、はっきりと姿が見えた。

 金色の髪。降る雪に溶け込んだ、白い衣装。
 一人の女がガードレールに腰掛けて、こっちを向いている。それはまぎれもなく、最後の一瞬俺の脳裏に現れた女の姿だった。下手な嘘をついた時、頭を掠めた女だった。

「―――――っ!!」

 一気に駆け出すと、女の側に走り寄った。何も言わずに女の体を強く抱きしめた。いったい何時ごろから待っていたのか、抱きしめた体は芯から冷え込んでこの夜の空気と同じ位だった。
 思わず女の手を握る。すっかり冷えた指先は氷のようになり、いくら強く握っても簡単には温まらなかった。痛いほど冷たくなった女の手が、俺の胸を鋭く抉った。

「ちょ、ちょっと。そんなにしたら痛い、痛いよ志貴。志貴ってば」

 女の声が聞こえる。それを無視して俺はいつまでも抱き続けた。顔のすぐ下に、女の頭がある。金の髪に軽く積もった雪を払いのけると、その手で何度も髪を撫でた。抱きしめたまま、遠い彼方に顔を向けた。女の顔を、見れなかった。胸の痛みはさらに激しくなり、焼け付くような熱さを帯びて俺を責め立てた。

「―――馬鹿」

 呻くような声を上げた。

「馬鹿。馬鹿だ。本当に、本当に馬鹿だ。大馬鹿だ」

 どこまで俺は馬鹿なんだろう。どれほど愚かで、醜い奴なんだろう。薄汚くて嫌な奴で、そして自分勝手で間抜けでみっともなくて。どんなに自分を罵っても足りなかった。自分という人間を目の前で見ることが出来たなら、今ここで死ぬまで殴りつけてやりたかった。
 この女を抱く資格なんかあるはずないのに。合わせる顔なんてないはずなのに。それでもこうして抱きしめてやってる自分がどうしようもなかった。

「何よ。せっかく迎えにきてあげたのに、馬鹿とはずいぶんじゃない」
「違う。違うんだ。違うが、馬鹿は馬鹿だ。馬鹿なんだっ!!」

 怒鳴りつけて初めて女の顔を見た。訳が分からず怪訝そうな顔をしている女を見て、ようやく抱きしめた腕を緩めた。

「………………ごめん」

 ぽつりと呟いた。うなだれた俺を不思議そうに眺めていた女がにっこりと笑った。

「いいよ。何があったか知らないけど、許してあげる。だって、あたしを見て真っ先に抱きしめてくれたもん。やっぱり志貴の手はあったかいね。だから、許してあげる」

 ニコニコと、いつものように笑っている。死にたくなった。そのくせ涙がこみ上げてくる。俺はどこまでも弱っちくて、ダメな奴だった。

「帰ろ、志貴。ね?」

 ガードレールから身を起こすと、女が俺の腕に自分の腕を絡みつかせた。すまないと思いつつ、その温もりが嬉しかった。黙って頷くと、俺は自分のマフラーを外した。女の襟元にそれをそっとかけてやる。すっぽりとマフラーに首元を埋めるとまた嬉しそうに微笑んだ。

「ありがと。優しいね、志貴」

 笑顔が痛かった。その痛みを飲み込むと、二人でゆっくりと雪道を歩き始めた。
 深々と雪は降り注ぐ。雪を踏む足音だけが空気の中に響いた。しばらく歩いたところでふと、足を止めた。

「…?どうしたの、志貴」

 歩いてきた道を振り返った。もう遠くなってしまった彼方に、一軒の灯火がほのかに見える。時南医院の灯す明かりだった。じっと明かりを見つめる。しばらくその光を見つめたあとで、小さく呟いた。

 

 ――――――さよなら。


 踵を返すと再び歩き始めた。組んでいた女の腕を取ると、その手をぎゅっと握り締めた。二度と後ろは振り返らなかった。

 雪がさっきより勢いを増し始めた。
 闇を白一面に変えてゆく雪が、時南医院の灯火をその中に覆い隠していった。








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